フランシスコ教皇は「保守」か「リベラル」か
シノドス後、最初のインタビュー
12月7日、アルゼンチンの新聞『La Nacion』に、教皇フランシスコのインタビューが掲載された。家庭についてのシノドス(世界司教会議)以降、最初のインタビューで、教皇は改めて「教会から見捨てられたと感じている人々(離婚者、同性愛者等を含むと思われる)の傷を癒すべきだ」と表明した。一方で、教皇は「シノドスでは、決して結婚についてのカトリックの教義自体は議論していない」とも述べた。
また、同日付『ウォール・ストリート・ジャーナル』には、インタビューからの若干の引用と解説が掲載されている。
Deborah Ball. “Pope Francis: Church Must Find Ways of Welcoming Divorced Catholics, Gays”. The Wall Street Journal. Dec 7th, 2014
世界的に(特にキリスト教圏において)フランシスコは高い人気を誇っているため、右と左、双方の陣営が、教皇の一挙手一投足について自分たちを支持してくれるかどうか、しきりに気にかけている。教皇の真意は本人でなければ分からないが、単純な左右の対立を超えて、教皇の立場は、もう少し成熟した思慮深いもののようだ。
教皇のこれまでの言動を振り返ると、カトリックの基本路線である、伝統的な結婚、家庭を守るという姿勢は明確であり、当然、同性婚を容認する発言も皆無である。ただ、「同性愛者の息子、娘を持った親たちが、その子供をどう育てたらよいのか」と問題提起していることでわかるように、教皇は、現実に起こっている問題に対して、教会が具体的にできることが何か、真剣に模索しているように見える。
一方で、カトリック内部を見ると、現在、教皇が打ち出す(進歩的に見える)アジェンダに対して、保守的な聖職者たちから疑問を呈する声があがっている。それに対してもフランシスコ自身は、対立と捉えるよりも、活発な論議がある事は「よい兆候」であり「教会にとって健全なことだ」と述べている。
「米国司教VSフランシスコ」は本当か?
上記のような教皇に対する内部の反応について、カトリック情報誌『クラックス』が解説記事を載せている。ジョン・アレン・ジュニアは「アメリカの保守的な聖職者たちとフランシスコが対立している」という物語について、それを裏付ける若干の根拠がない訳ではない、としつつ、それがかなり大げさだという理由を四点、挙げている。参考までに以下に紹介しておく。
John L. Allen Jr.. “Are US bishops really resisting Pope Francis?”. CRUX. Dec 6th, 2014
第一に、これは当然のことだが、米国には、195の司教区、大司教区などがあり、200人の司教が存在する。引退司教や助祭なども合わせればその数は450人に上り、皆が同じ考えを持っているわけではない。中には、フランシスコのブレーンとなっているボストンのショーン・オマリー枢機卿のような人物もおり、米国の聖職者が一致してフランシスコに対抗しているという事実はない。
第二に、フランシスコに対して、どんな抵抗があったとしても、それは歴代教皇が常に直面してきたことであり、何ら新しいものではない。例えば、ヨハネ・パウロ二世が1986年にシアトルのリベラルな大司教を異動させた際にも、米国の聖職者たちとの間に深刻な対立が生じるのではないかと懸念された。そのような対立は、キリスト教徒となった非ユダヤ人の扱いについてペテロとパウロが葛藤した時に遡り、決して珍しいことではない。
第三に、フランシスコは教会の中で、問題について公然と議論することを奨励しており、10月のシノドスでは、「教皇との意見の相違を恐れて高位聖職者の一部が口をつぐんでいる」という投書を、教皇自らが声を上げて読み上げ、決してそのような遠慮をしないようにと述べたほどである。したがって、誰かが意見を述べるたびに教皇に「抵抗(resist)」していると騒ぎ立てるのは危険な事だ。それは教皇の方針に「従っている」と言えるのだから。
第四に、フランシスコの成功は、アメリカのカトリック聖職者にとっても好ましいことだ。最近、カトリックの司教がテレビに出るたびにぶつけられるのは「性的スキャンダル」「修道女への抑圧」「熾烈すぎる政治闘争」などだった。それに対してフランシスコが提示するイメージは、カトリックの評価を大きく改善する。
三番目の理由で挙げられているように、教皇は、現実問題に対する活発で、責任ある議論を要求している。2015年の秋には、カトリックが後援してフィラデルフィアで家族に関する会議が開催され、教皇もそこに出席するために訪米する。その際、教皇のホスト役は保守派のチャールズ・シャピュウ大司教が務めるだろうと言われているが(『Crux』前掲記事)、彼は10月のシノドスに関連する報道が「混乱」を生み出したと批判している人物だ。しかし、これを「教皇と保守派の対決」のように単純に煽り立てるのは不適当だろう。
全世界に12億の信徒を抱えるカトリックは、これまで一貫して、伝統的な結婚と家庭を支持する最も強力な基盤であり、その基本路線に大きな変更が加えられることは考えにくい。しかし、現実に増え続ける深刻な社会問題について、カトリックが提供できる「救い」とは何なのか、その答えを探し出す真摯な取り組みが続けられている。
12月4日『la nacion』による教皇インタビュー(抜粋、要約)
Q 「フランシスコ効果」にも関わらず教会の信徒は減少しています。
A そこには多くの外部的要因もあるでしょう。ただ、私は教会自体のことを考えたいと思います。何が、教会内で信徒たちを不幸にしているのでしょうか。それは、教会に対して信徒たちが距離を感じてしまう聖職者中心主義です。私たちは人々を探しもとめ、彼らが抱えている問題や現実に共感しなければなりません。また聖職者中心主義は、一般信徒が成熟する道を閉ざしてきました。南米では、大衆的な信仰心を表明することにおいては、一般信徒の方がより成熟しています。
Q 信徒たちのドロップアウトを止めることを目標としますか?また、彼らを取り戻す戦略はどうですか?
A 私は、ドロップアウトと言う言葉を好みません。それは、改宗・布教を連想し、閉じた言葉です。私はむしろ野戦病院のイメージを使いたいと思います。非常に傷ついている人々がいて、彼らは私たちが彼らの傷をいやしてくれるのを待っているのです。
私は戦略という言葉も好みません。それは、まるでNGOのようです。私はむしろ、主の召命について語ります。教会が私たちに願うことは、戦略ではなく、主の召命に答える事です。
教会は、野戦病院である必要があります。そして、私たちは、ちょうど良きサマリア人がなしたように、傷をいやそうと試みる必要があるのです。一部の人々の傷は、顧みられない(neglect)ことによって生じます。他の人々は、彼らがまさに教会自体によって見捨てられたので傷ついているのです。一部の人々はひどく苦しんでいます。
Q あなたは非常に率直に語り、婉曲表現を使いません。しかし、なぜ、特に臨時司教会議(シノドス)の後、一部の聖職者たちが方向感覚を失い「舵を失った船になった」と言っているのでしょうか。
A それらの表現は非常に奇妙なものとして私に響きます。私は、そういう言葉を使う人を知りません。
私は回勅を書きました。使徒的勧告です。私はそれに基づき声明をつくり説教をします。それが私が考えていることです。『福音の悦び(Evangelii Gaudium)』(フランシスコ教皇就任後、最初の回勅、所信表明)は非常に明確です。それをチェックしてください。
Q メディアの一部は、シノドスで表面化した分裂の故に「ハネムーンは終わった」と言及していますが…。
A それは教皇に対する分裂ではありません。なぜなら、教皇は基準ではないからです。私は、口火を切り、皆の意見を聞こうとしたのです。最終的に私の説教が司教たちによって熱烈に受け入れられた事実が教皇が問題ではないことを示しています。
Q 抵抗があるのは普通の事ですが、20カ月ほどたって、それはより明白になっているようです。
A あなたが言ったように、現在、抵抗は明白です。そして、抵抗を明るみに出すこと、意見の相違がある時、陰でぶつぶつ言わない事。それは私にとって良い兆候です。物事をオープンにするのは健全なことです。
また、私にとって抵抗は意見の相違であり、何ら、汚いものではありません。すべては私にとっては普通のことと見えます。そこに意見の相違がないなら、それこそ異常なことでしょう。
教皇の言葉の中にある「良きサマリア人」「野戦病院」との表現が、現在の教皇の思考、および今後のカトリック教会の方向性を推し量る上でのキーワードになるのではないか。それは決して教義論争ではなく、福音の実践に関わる問題となるだろう。教皇は福音や教義自体に変更を加えるつもりはなさそうだ。
『福音の悦び』に記された通り、教皇が基準とするのは、あくまでも「神の声」と「民の声」である。もし警戒すべき点があるとすれば、そのどちらかが欠落しバランスを失ってしまうことだと思われる。「民の声」を失えば教会は衰退の道を歩み、「神の声」を失えば、限りない頽廃がもたらされることになるだろう。
2014年12月9日
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