共に生きる「市民教育」の必要性

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23日現在、二人の日本人の人質に対して「イスラム国」が指定した交渉期限が近付いている。一民間人として、多くの日本人と同様に己の無力さを感じざるを得ない。二人の無事な解放を祈るばかりだ。

この事件は、あらためて世界に拡大するイスラム過激主義の問題が、日本にとっても対岸の火事ではないことを示した。これからの世界においては、ますます異なる宗教、文化に対する相互理解、相互尊重の姿勢が必須になる。

トリニティ・フォーラム創設者のオズ・ギネスは『ワシントン・タイムズ』にコラムを寄せて、確固たる「市民教育」と新しい「公共空間」創出の必要性を訴えている。彼は言う。「私たちは共に生きる(live together)か、死ぬかのどちらかである」。

Os Guinness. “The challenge raised by the Paris slaughter”. The Washington Times. Jan 15, 2015

彼は「パリでの恐ろしいテロリストの虐殺に対して、無数の恐れに満ちた反応があった。しかし、その中で世界のために前進する道を指摘する者は僅かしかなかった。しかし、それは確実に、何にもまして必要である」と指摘し、70億人類が抱える課題を「宗教やイデオロギーの違いを中心とする多様性」と「自由の促進と調和の維持」を如何に両立させるか、という点に集約する。彼の論点は以下の三つだ。
 
 
現代の課題についての三つの論点

第一に、現代社会で、この問題が緊急性をもって現れた要因を直視すべきである。それは「宗教の世界的な復活(特に政治的次元における)」と「インターネットによって形成される世界的公共空間(Global Public Square)の出現」だ。私たちが語ることは、世界によって聞かれ、その反応は、しばしば暴力的に組織され得る。

第二に、私たちはこの挑戦が関わるすべての次元を認識すべきである。その最も基本的な次元は、セキュリティに関することであり、暴力に対抗する必要な処置が取られている。その上には、私たちの多様な社会に、如何に統一、安定性、正義を成就するか、という次元がある。そこには貧困、搾取、疎外の問題が含まれる。

そして、最も高いレベルにおいては、私達すべての豊かな人間の多様性と共に、いかに、すべての人の政治的社会的自由を保護し拡大できるかという挑戦が横たわっている。この挑戦に対して、ヨーロッパは多文化主義をもって対処し、アメリカはスピーチ・コード(言葉づかいにおけるルール)で対応したが、それらは問題を悪化させ、むしろ自由を制限する結果につながった。

第三に、最も重要な事として、宗教とイデオロギーが、公共空間と建設的に関わる方法について前向きなビジョンを追求しなければならない。現在、ここには二つの不十分で極端な考え方がある。

一つは「聖なる公共空間(the Sacred public square)」の概念だ。そこでは特定の宗教のみが好まれ、最高の位置を獲得し、他の宗教やイデオロギーの信徒たちは、二流市民に甘んじるか、最悪の場合は迫害のもとに置かれる。イラン、ミャンマー、パキスタン各国におけるバハイ教徒、ムスリム、キリスト教徒がおかれている運命がそれである。

もう一つは「むきだしの公共空間(the naked public square)」の概念である。そこではあらゆる宗教が公共生活から除外され、世俗主義者の信条が積極的に、あるいは無意識に推進される。極端なケースは中国、北朝鮮などであり、より穏健な形は、いくつかの西側国家の厳格な分離主義として現れている。
 
 
新しい「公共空間」の創出と「市民教育」

これらの両極端に替わるものは「市民の公共空間(a civil public square)」のビジョンである。そこでは、あらゆる信仰、信条を持つ人々が、彼らの信仰を基盤として自由に公共空間に入り、関与することができる。その際、重要なことは、他の全ての信者や市民にも、同様の権利や自由が保障される政治的に同意されたフレームワークがあることだ。信仰、思想に関わらず、すべての人が同じ権利と責任を共有する。

このビジョンを実現するためには「市民教育(civic education)」あるいは、アレクシ・ド・トクヴィルが「心の習慣(the habits of the heart)」と呼んだものが不可欠である。自由社会には、憲法や法律など「自由の構造」だけでなく、違いをどのように取り扱うかについての「自由の精神」が必要だ。これは一つの世代から次の世代へ、既成市民から新しくやってきた人々に教育され、手渡しされなければならない。

オズ・ギネスは、「エ・プルリブス・ウヌム(多数から一つへ:多州から成る統一国家)」を創設理念として持ち、偉大な成果としても現してきたアメリカという国に期待をかける。30年前にこの国に移住してきたギネスは、この国に愛着を持つ者として、宗教と公共生活に調和を維持してきた歴史を称賛する。しかし、最近の多くの紛争と誤った対応により、その成功は曇らされた。

アメリカ国内においてすら、上記「市民教育」が失われて久しい。それを取り戻すために、彼は「新しいマディソン、リンカーン、ルーズベルト」を待望する。ささいな政治工作、文化的葛藤を乗り越えて、すべてのアメリカ人のために前向きなビジョンを投じるリーダーは現れるだろうか?そして、世界をリードする社会が、その理想(多様性の統一、調和と自由の両立)についてのリーダーシップを回復できるだろうか。

彼は、最後にパリの流血の惨事を思い起こさせて、最初に挙げた印象的な言葉で締めくくる。

「私たちは共に生きるか、死ぬかのどちらかである」。
 
 
「ドロール報告書」が呼びかけた「Live together」

この「Live together」という言葉で思い出すのは1996年にユネスコへ提出された「ドロール報告書(通称)」(”Leraning : The Treasure within”)である。そこでは、技術が進展し、グローバル化が急速に進む世界における新しい教育の柱として四つの「学び(Learning)」が挙げられている。

the International Commission on Education on for the Twenty-first. “Learning : The Treasure within”. UNESCO 1996

他の三つの学び、「Learning to Know」「Learning to do」「Learning to be」と並んで、最も強調すべきものとして最初に挙げられたのが「Learning to live together」であった。ドロール報告書では次のように書かれている。

「『共に生きることを学ぶ』ことは、他者と彼らの歴史、伝統、そして精神的価値への理解を発展させ、この基盤の上に立って、高まる相互依存の認識と未来のリスクと挑戦についての共通の分析によって導かれる新しい精神を築くことにより、人々に共通のプロジェクトを実行し、必然的な紛争を知性と平和的手段によって解決するよう導くだろう。ある人々は、ユートピアだと考えるかもしれないが、それは必要なユートピアであり、私たちが冷笑と諦めによって維持される危険なサイクルから抜け出すために、実際に、死活的に重要なものである」

このような教育は、生涯にわたってなされるべきだと報告書は説いているが、これは、ギネスが「市民教育」と呼ぶものと重なる。しかし、約20年前に公表されたこの理想は、未だ実現していない。報告書を主導したジャック・ドロール(第八代欧州委員会委員長)の出身地であるフランスにおいて、痛ましいテロが起きたことはあまりにも皮肉である。これを単なる皮肉としないためにも、「Learning to live together」の重要性を改めて認識する機会としなければならないだろう。

一方で、日本は現在のところ、文化的に均質な社会を維持しているが、少子高齢化とグローバル化という内外の要因によって、遠くない時期に、異文化が共存する社会へと転換せざるを得なくなるだろう。今回の人質事件の帰趨は別としても、「Live Together」を如何にして学ぶのか。これは世界共通の緊急な課題である。
 
 
最後に、繰り返しとなるが、二人の日本人の無事な解放を願ってやまない。

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