「クリスマス」の守り方
この時期になると米国のメディアではクリスマス論争が盛んになる。「メリー・クリスマス」を守ろうとする人々と、攻撃する人々との闘いだ。しかし、多くの人々はこの論争をある程度冷静な目で見つめている。ちなみに、世論調査(2013年)の結果では、この時期の挨拶として「メリー・クリスマス」を好む人が42%、キリスト教色のない「happy Holiday」などの表現を好む人が12%、残りの46%は「大した問題ではない」と考えている。
“‘Merry Christmas’ or ‘Happy Holidays’?”. Pew Research Center. Dec 12th, 2014
「メリー・クリスマス」を巡る二つの論調
保守的なメディアを見ると「メリー・クリスマスが帰ってきた」との見出しが踊る。例えば『クリスチャン・サイエンス・モニター』では、テキサス州で成立した通称「『メリークリスマス』法」を紹介する。この法律は、公立学校で「クリスマス」に関連した掲示や装飾をしたり、教師が宗教的な祝日に関して教えたりすることを合法化する。いわゆる「War against Christmas(クリスマスに対する戦争)」に対する勝利である。
「これで子供たちや教師たちは、訴訟のリスクを恐れることなく、クリスマスを楽しむことができる」とは、この法案を通した州議会議員の言葉だ。
一方、少しリベラルなメディアはどうだろうか。こちら側では、同時期に行われるユダヤ人の「ハヌカ」など、多様な宗教で多様な祝祭を行う人がいる中で「メリー・クリスマス」だけを強調することは、それらの人々に苦痛を与える、と主張する。
『ワシントン・ポスト』は、あるユダヤ人男性の「私はカトリックの妻と結婚しているが、家の中では一切ツリーもリースも許さない」という発言や、同じくユダヤ人女性の「赤や緑、イエスの冠を表すリースなどは私にとって宗教的であり、よそよそしい気持ちになる」という言葉を取り上げて問題提起する。
Michelle Boorstein. “Jews grapple with how to celebrate Hanukkah during Christmas”. The Washington Post. Dec 15th, 2014
「クリスマスソング」を作ったユダヤ人
このような発言だけを見ると、圧倒的多数のキリスト教徒が、マイノリティに心理的圧迫を加えているかのようなイメージを持ってしまうが、このような反応はかなりセンシティブな部類に入るだろう。この記事の中でも、ユダヤ人の中にクリスマスを宗教問題として取り上げることを疑問に思う人々がいることを紹介している。
実際に統計を取ると、現代では、クリスマスを宗教的な意味ではなく、文化的な祝日としてお祝いしている米国人も多い。
“Celebrating Christmas and the Holidays, Then and Now”. Pew Research Center. Dec 18th, 2014
実際に、非常に多くのポピュラーなクリスマスソングがユダヤ人によって作られているという事実がある。「ホワイトクリスマス」「Let it snow」「赤鼻のトナカイ」「ウィンター・ワンダーランド」などなど数え上げればきりがない。
Lauren Markoe. “Why Jewish songwriters skipped Hanukkah and wrote the most beloved Christmas songs”. Religion News Service. Dec 13th, 2014
彼らは強制されたわけではなく、自ら進んでクリスマスソングを作っていた。彼らにとって、クリスマスは家族みんなが楽しい気持ちになる日であると共に、ヨーロッパから逃れてきた彼らに安住の地を与えてくれた「アメリカ」という国を祝う日でもあったという。特に第二次大戦の頃、それは米国人の心を一つにまとめる愛国的な祝日となった。
戦闘的な世俗主義者とキリスト教徒との戦い
この問題についてバランスのとれた洞察を示しているのは宗教学者のピーター・バーガーである。彼は「クリスマスを守ろう!」という一部保守主義者の喧噪に苦言を呈する一方で、彼らの過剰反応を引き起こさせる戦闘的な世俗主義者(バーガーは彼らを「ケマリスト」と称する)の存在を指摘する。
Peter Berger. “The “War on Christmas” and All That”. The American Interest. Dec 17th, 2014
彼らは(上にあげた「訴訟を恐れる」という発言でもわかるように)学校や政府の行事などで、少しでもキリスト教を連想させるような行為や装飾を見つけると、合衆国憲法修正第一条の侵害だ!として訴訟騒ぎを引き起こす。その中心となっているのは、必ずしもユダヤ教徒などのマイノリティではない。「宗教は非合理的で危険なものであり、公共の場から厳密に隔離しなければならない」と考える戦闘的な世俗主義者たち、いわゆる「ケマリスト」である。
彼らはフランス革命に源流を持ち、トルコではケマル・アタテュルクの徹底的な非イスラム化政策となって現れた。しかし、バーガーによれば「アメリカは民主主義であるとともに強力な宗教国家」なので、そのような世俗主義者が選挙に勝利することは決してない。そこで、彼らは三権の中で最も「民主主義的でない」司法に狙いを定めたのである。
このようにして反宗教的な訴訟が次々に引き起こされ、議会や学校など公的な場から聖書的なシンボルや祈祷が締め出されてきた。このような動きに対して、保守的な考え方を持つ一般の米国人が疑問を持ち、そのうちで行動的な人々は、逆に訴訟を起こしたり、州議会などで立法措置を講じることで対抗してきた。
歴史的経緯を経て、戦闘的世俗主義者であるケマリストたちは民主党内の圧力団体となった。それに対抗する反ケマリストは共和党に入った。クリスマスの時期になると訪れる「クリスマス論争」も、その両者の戦いである、というのがピーター・バーガーの見解だ。それは決して「宗教的マイノリティ」VS「キリスト教徒」の戦いではない。攻撃的な「アンチ・キリスト教徒」VS「キリスト教徒」の戦いである。
「クリスマスを守る」本当の方法とは
ただ、彼によれば、どちらも「ばかげたグループ(Kokky Group)」だと言う。冒頭で彼は指摘する。「バランス感覚は、政治的健全性の重要な要素だが、それが著しく欠如しているのではないか。公共の場でクリスマスを掲示するかしないかで躍起になっているが、イラクやシリアでは「イスラム国」によって、何万ものキリスト教徒が殺され、強姦され、彼らの家から追われているのだ」。
また、アメリカは彼にとって「活気にあふれた多様な宗教が存在する国」であり、そこに住む人々は「二つの多元主義を忍耐して受け入れることを学ばなければならない」と主張する。その二つとは、「様々な宗教が平和裏に共存する多元主義」と「宗教的論議と世俗的論議(法律や市場経済の宗教的中立性)の二元性」である。
彼は言う。「ハッピーホリデー」や「季節の挨拶」は、決して「キリストをクリスマスから追放しようとする反キリスト教徒」だけが口にする言葉ではない。むしろ、それは多元主義社会におけるエチケットの表現であり、それによってイエス・キリストがクリスマスから追放されるわけではない、と。
勿論、実際には、公共生活のあらゆるレベルからキリスト教を追放しようとする「ケマリスト」たちの動きに対応しなければ、米国はキリスト教徒にとって非常に住みにくい国になっていく。「クリスマスを守ろう」とする運動には、相応の必要性と合理性がないわけではない。これを「ばかげたグループ(Kokky Group)」と呼ぶのは言い過ぎだろう。
ただし、バーガーが恐れるのは、信教の自由を守り、多様な宗教が存在できる社会を作ってきたキリスト教徒自身が、逆に偏狭な立場に立って多様な宗教に対する寛容やリスペクトを失うことである。「キリストをクリスマスから追放しない」ために必要なのは、政治運動よりも、むしろ個人の内面的体験ではないか、と彼は言外に指摘する。
「メリー・クリスマス」と口にしても、全く宗教性のないバカ騒ぎに興じる人もいる。一方で「ハッピー・ホリデー」と挨拶しつつも、内面で深いイエスとの交わりを保つ人もいる。何より、本当にキリスト教徒であるなら、自分たちのクリスマスをさておいて、イラクやシリアで恐怖に怯えつつクリスマスを迎えるクリスチャンのために、祈り、行動するはずだ。
バーガーのエッセイが、若い頃のクリスマス休暇で、イエス・キリストとの出会いに勇気づけられた個人的体験を紹介して締めくくられているのは非常に印象的である。彼は最後にこのように書く。「私は私だけのクリスマスの経験をもっている。そして、キリストは確かにその中におられたのである」。
2014年12月20日
コメントを残す