「民主主義」の賞味期限は切れたのか?

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イギリスで行われたEU離脱の国民投票を巡る騒動は、民主主義とは何か、について、深い反省を私たちに突き付けた。そこで、私たちが目にしたものは、まさに、近代民主主義の導入時に危惧された「多数者の専制」そのものだった。EU離脱派は確かに勝利したが、一方で、国民の半数を占めつつも「少数者」となったEU残留派の人々の心に深い失望と傷跡を残した。民主主義の本質とは何なのか。それは、同意なのか、多数決なのか。「すべての国民に等しく、自らが属する社会の方向性を決める権利が与えられるべきだ」という理想は認めるとしても、現実に、すべての国民の願望や意見が一致することは考えにくい。では、どんな要素が、民主社会における政策の正統性を保証するのだろうか?

イギリスのリンゼイ卿が第一次大戦と第二次大戦の戦間期に著した『民主主義の本質』は、まさにその問題を扱っている。そこで示される民主主義のリスクは、そのまま現代に当てはまる。代議制民主主義は、彼がこの著作の中で描いた通り、中間的な電波媒体(当時はラジオ、現代はテレビやインターネット)を通して、巨大な仮想民衆総会(Public Meeting)の場と化してしまい、議場で行われる討論は、まさに代議士同士の討論というよりも、その背後にある、巨大なマス(大衆)に向けた演説となっている。そして、最終的にはより多くの大衆の支持を得たものが「多数者の専制」をもって政策の方向性を決定づけるのだ。政策を決定するのは、代議士同士による「討論」ではなく、大衆レベルでの巨大な「人気投票」となり、代議制は衰退する。その典型は、まさに、現在進行中の米国の大統領選挙である。

すべての人がありのままに「自分の意見」を述べ、自らが同意できない政府や政策に対しては従う義務がない、という考え方は、当然ながら「無政府主義」への危険を伴う。だからと言って、多数決で決められたことには従うべきだ、というなら「多数者による専制」を免れることはできないだろう。そこで、リンゼイ卿が、民主主義成功の鍵を提示するものとしてあげるのが、清教徒革命の最中に開催された「パトニー会議」におけるクロムウェルの信条および態度である。
 
 
民主主義の成立に必要な「共通目的と普遍的価値」

クロムウェルについては、革命の成功後、護国卿となり専制的な政治を行ったことから、否定的な評価も少なくないのだが、少なくとも清教徒革命を成功に導く課程における彼の姿勢と、彼の軍で開催されたパトニー会議には、民主主義の本質であり、原点ともいうべき要素が含まれていた。それは、一言で「会議の精神」と呼べるものだが、そこでポイントとなるのは、議論に参加する各人が「自らの意見」ではなく、「神の言葉」を語ろうと心がけることであり、そのことによって最終的に「神の意志」を発見しようと努めることだ。従って、ある人物が語った言葉は「神の意志」の発見のために捧げられた特定の個性からの貢献であり、発せられたのちには、その人物の所有を離れ、他者の批判に供されることになる。この会議の成立の前提となるのは、すべての人が、それぞれ特別な個性をもちつつ、神の声を受け取ることができる祭司であり、従って、それぞれが自らの内なる「神の声」を語り、お互いに耳を傾けていけば、必ず「神の意志」を発見できるという確信である。

この確信は、清教徒革命を推進した独立派、再浸礼派、クウェーカーといったキリスト教の会衆の集いであったからこそ可能になったとも言えるが、あらゆる成功する会議が共通して備えているものでもある。この確信がない所には、「妥協」以外のどんな合意もあり得ない。ここで問題となるのは、規模ではない。普遍的な「神の意志(=共通の結論)」があり得るという確信、そして、その「神の意志」につながる貢献を、すべての人が成しうるという確信、それらが民主主義の成功のカギとなるのである。

これは、近代的な民主主義が、キリスト教社会である欧米と、ほぼ単一民族で構成される日本のような均質的(ホモジーニアス)な社会でしか成功しなかったという事実とも符合する。目指すものが同一であり、重視する価値を共有しているという感覚がなければ「会議」は成立しない。現代のヨーロッパで民主主義が危機に瀕し、マイノリティの排除など「多数者の専制」を志向する政党が支持を伸ばす背景には、暗黙の前提として共有されてきた「キリスト教的価値」の衰退、および移民の流入による、多元社会化があることは間違いない。多様性が普遍的価値を基盤として展開されるものでない限り、そこには、解消し得ない「対立」というものが残り得る。多様な個性を持ちつつも、共通の目的を持ち、共通の価値の基盤の上に立っているという確信がなければ、民主社会は成立しないのである。あらゆる個人や集団が、共通の目的や価値の基盤を共有しないと考える社会は、専制社会にならざるを得ない。まさに現代の中国のように。
 
 
民主主義に未来はあるか?

今後は、単一宗教や、単一民族だけで構成される国家というものは考えづらくなるだろう。そのような時代にあっても、果たして、民主主義は生き残ることができるだろうか。多宗教、多民族が併存しながらも、民主主義を成立させることができる可能性、それは、つい最近までの米国の中にヒントが見られた。ロバート・ベラーが「米国の公共宗教」と呼んだものがそれである。宗教や、民族の出自を越えて、社会全体が共有する価値の基盤を見出すことができるなら、パトニー会議の伝統を引き継ぐことが可能である。果たして、イスラムとキリスト教は共通の価値を見出すことができるだろうか?西洋的な人権主義者と、東洋的な共同体主義者は、共通の理想を見出すことができるだろうか?もしも、それが不可能ならば、世界的なアナーキズムか、世界的な「多数者の専制」が待っている。それは、あまりにも悲惨な未来だ。

いずれにせよ、現代のように、多くの宗教や民族が国境を越えて入り乱れる時代こそ、宗教者や思想家の積極的貢献が必要である。「脱イデオロギーの時代」が喧伝されたこともあったが、人間は、価値観や、思想、信条なしに生きていくことはできない。党派的イデオロギーを超えた、普遍的なイデオロギーを見出すことができるかどうか、そこに民主主義ばかりか、人類の未来がかかっていると言っても過言ではない。

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