パリ、真に戦うべき敵は誰なのか?

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パリでの惨劇の後、日本でも連日多くの関連報道がなされた。1月のテロから1年を置かずに再び凶悪なテロが起こったことで、今回はフランス社会そのものが抱える問題に焦点をあてた分析も増えた。そこでは、フランス社会におけるマイノリティの扱いを、イギリスなどと比較する切り口も目立っていた。すなわち、英独などの「多文化主義」に対するフランスの「同化主義」という視点である。

例えばイギリスでは異なる文化的アイデンティティを持つ人々を、別々のグループに区分して共存を図る多文化主義のアプローチが取られている。それに対して、フランスは同化政策を取り、政教分離(レイシテ)の原則のもと、公共生活における信仰表現を厳しく禁じ「自由、平等、博愛」というフランスの普遍的(かつ世俗的な)価値への統合を図る。

しかし、多くの識者が指摘するように、フランスの同化政策による国民統合は必ずしもうまくいっていない。むしろ、主に北アフリカ起源の移民たちと、それ以外のフランス人との間の亀裂は深まる一方だ。
 
 
「自由、平等、博愛」の世俗主義とムスリム差別

1月のテロの後、オランド政権は傷ついた国家の団結を修復するために世俗主義的な教育を徹底することを方針として打ち出し(1)、オランド大統領は、教師をテロに対するフランスの闘いの「最前線(front line)」に位置付けた(2)。しかし、それは敬虔なムスリムにとっては、フランス的価値の押しつけ、強要と映る。

(1)Sophie Louet. “France takes battle against radical Islam into schools” Reuters. Jan 22, 2015

(2)“Education on ‘front line’ of France’s battle against terror”. France24. Jan 23, 2015

フランスの世俗主義である「レイシテ」原則に基づく一連の政策、…公的な場でのブルカやヒジャブの着用の禁止、学校給食におけるハラール食の廃止などの施策は、彼らにとっては自由な信仰実践への弾圧にほかならない。今回のテロの後、こうしたこともフランスにおいてテロが相次ぐ背景の一つだという指摘が相次いだ。

確かに、フランスの同化政策で忠誠の対象とされる「自由、平等、博愛」は、出発の経緯からして、全ての国民にとって中立的なものではない。その原点となったフランス革命は、国王や貴族のみならず、カトリック教会に対する激しい憎悪を伴っていたため、フランスの政教分離は伝統的に宗教に対して敵対的な色彩を帯びている。

この点は、国家による宗教の統制を禁止し、宗教活動の広範な自由を認めるアメリカの友好的政教分離とは著しく異なっている。従ってフランスにおけるムスリムが、非常に制約された宗教生活を余儀なくされているのは事実である。フランスの敵対的宗教分離が、彼らの疎外感を増幅し、先鋭化させた要因の一つであることは否定できない。「自由、平等、博愛」という理想が美化される一方、フランスにおける移民差別、ムスリム差別は非常に厳しい。居住地域における際立って高い失業率と貧困率も、移民系ムスリムに対する差別の表れと言えるだろう。

1月のシャルリエブド事件以降も、「連帯」の美しいメッセージが発せられる陰で、ムスリムを対象とする差別事件が多発した。イスラム排斥を訴える極右政党「国民戦線」も、順調に支持を広げている。

その傾向は、、今回の事件後の政府関係者の発言や、市民の動向を見る限り、強まりこそすれ、改善されることは難しそうだ。オランド大統領は事件後の発言で「ムスリム」「イスラム」などの言葉を使用することを慎重に避けたが、過激な説教を行うモスクの閉鎖など、右傾化とも見える政策を打ち出している。

極右国民戦線のマリン・ル・ペンの鼻息は相変わらず荒く、市民レベルでもムスリムに対する風当たりは更に強くなっている。惨劇の現場であるバタクラン劇場近くで、犠牲者に祈りを捧げていたムスリム女性たちにさえ、容赦ない非難の言葉を浴びせる者が現れた。ニューヨークタイムズの以下の記事を参照されたい。

Adam Nossiter and Liz Alderman. “After Paris Attacks, a Darker Mood Toward Islam Emarges in France”. The New York Times. Nov. 16, 2015
 
 
「疎外」と「テロ」は普遍的課題である

もちろん、言うまでもないことだが、こうしたテロが起こるのは、宗教に抑圧的な同化政策だけが原因ではない。『Foreign Affairs』の「多文化主義の失敗(The Failure of Multiculturalism)」に記されているように、英独などの多文化主義も決して上手くいってはいない。

Kenan Malik. “The Failure of Multiculturalism”. Foreign Affairs. MARCH/APRIL 2015 ISSUE

これはイスラム移民の問題に限らず、社会統合に向けた普遍的な課題なのである。文化や人種、民族の違い、そして経済的な格差は、歴史を通じ、洋の東西を問わず、あらゆる社会に存在してきた。疎外された不満が、集団的な暴力となり、治安問題を引き起こしてきたのは現代に限ったことではない。

インターネットや爆弾技術の発達など、現代に特有の課題も確かに存在するが、他国で教育や訓練を受けた人物が母国に帰ってテロを実行するという図式も、20世紀の共産主義運動において頻繁に繰り返されていた。疎外感から生まれた敵意と歪んだ正義感が、思想的な看板を付け替えて猛威を奮っているだけだとも言える。そうした意味では、イスラムもテロの原因というより、格好の口実として利用されている側面を否定できない。そのことは、テロ行為を実行したり、ISに加わる若者たちが、必ずしも敬虔なムスリムとして育ったわけではないことからも伺える。

社会から疎外されているという共通の感覚から、かつては左翼運動が、現代では宗教過激主義が育っている。両者にある共通点は、疎外の原因を自らの外側に求め、倒すべき「敵」を作り出しているということだ。左翼運動の場合は「富を独占する資本家や権力者」が、イスラム原理主義の場合には「堕落した西洋文明」が殲滅すべき敵として位置付けられている。移民排斥を声高に訴える極右勢力も、実は同じ穴のむじなである。失業問題などに苦しむ若者が、その不満のはけ口を移民たちに向けている。その最も激しい形が2011年7月22年に起きた極右青年による無差別テロだ。

しかし、疎外感からくる怒りを積極的に利用したマルクス主義や、極右勢力はいざ知らず、宗教は、本来であれば、過激化を加速するよりも、それを食い止める役割をはたすはずの存在だ。何故なら、そもそも宗教とは、イスラムを含めて第一義的には自己変革を促すものである。従って、他者に責任を転嫁したり、ましてや恨みや怒りに任せて他者を蹂躙するような行為は厳に戒める。テロや暴力を煽る宗教指導者は、自ら自身が己の内なる憎悪や敵意にとらわれて宗教の本義から外れていることを知るべきだ。
 
 
テロ防止に果たすべき宗教の役割

では、テロはどうしたら防ぐことができるのか?憎悪や敵意の源泉である不満や疎外感自体をなくすことが必要なのか?もちろん、誰も不満や疎外感を感じなくて済む社会を作れるならそれに越したことはない。国家の福祉政策を通じた公正な再分配だけでなく、良心的な富裕層による自発的な慈善事業など、格差を埋める努力は必要だ。

しかし、それだけでは十分ではない。第一に、完璧な福祉政策など存在せず、個人の慈善事業にも限界がある故に、貧困や失業などの経済的な格差を完全になくすことはできない。第二に、これは重要な点だが、人を過激な行動に駆り立てる要因は経済的格差ばかりではない。それは、今回のテロの実行犯が必ずしも失業者ではなく、定職を持った有為の若者を含んでいたことからも明らかである。例えば、戦前の日本で共産主義や無政府運動に走った若者のうちには富裕層の子弟やインテリが多く含まれていた。

人が、置かれた境遇や、思想、価値観など様々な点で違いを持つ他者との関係で生きる以上、優越感や劣等感、更には屈辱や疎外の感覚に苛まされることは避けられない。更には深刻な社会矛盾に直面し、怒りや憎しみにとらわれる者もいる。

ただし、それらの感情は深い内省を伴う時、より成熟した自我への成長をもたらす経験ともなり得るはずだ。人間には、最悪の不遇をも、成長の糧に変える素晴らしい可能性が備わっている。不満や疎外感、憎しみ自体を完全になくすことはできないが、だからこそ、それを肯定的で建設的な方向に乗り越える道が必要なのである。

そもそも本来の宗教とは、そうした可能性を自覚させる触媒の役割を果たすものではなかったか?与えられた不遇な環境を、むしろ自らを純化するための神の賜物と捉えさせ、敵を許し、更なる勤勉と奉仕に励ませることで、その人間の人生を内外ともに豊かなものとする、そうした実例を積み重ねてきたが故に、宗教は数千年にわたってその命脈を保ってきたのではないだろうか。

イエスキリストの弟子には「熱心党」と言われる過激派に属する者もいたと言う。そうした弟子たちにイエスは説いた。「汝の敵を愛し、迫害するもののために祈れ」。そして自らを十字架に架ける者たちを愛し、許した。釈迦も同様に、自分に背き、殺そうとした提婆達多を許したばかりか、彼を、自らが悟りを開くうえでの恩人とまで呼んだ(提婆達多が本当に釈迦を殺そうとしたかどうかは異論があるが、少なくとも多くの仏教徒はそう信じて来た)。

その視点から見ると、私たちがパリで見たものは、必ずしも宗教テロではない。疎外された苦しみや怒りを昇華してくれる真の宗教がなかったが故の悲劇である。

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