「文明の衝突」を避けるために
今回は、まず初めに個人的な所感を述べさせていただこう。
先週初めに、テロ襲撃後生き残ったスタッフによって初めて発行された『シャルリーエブド』最新版の表紙を巡り、フィリピン、ナイジェリア、チェチェンなど、世界各国で暴力的な衝突を含む激しい抗議行動が巻き起こっている。『シャルリーエブド』はテロリストに屈するべきではないが、多くの穏健なムスリムに対しては何らかの説明責任を果たすべきだろう。テロの直後、宗教や人種、国籍を越えて築かれた連帯を何としても取り戻す必要がある。
テロの直後、多くの国家元首と数百万人がデモを行い、インターネットを通じて世界中の人々が『私はシャルリー』と連帯を示した時、その戦いは「平和を愛する全人類」対「テロリスト」であるはずだった。しかし、今や「宗教を貶める西洋文明」対「預言者の誇りを守るイスラム」という、まさにテロリストたちが思い描いた構図に完全にすり替えられようとしている。イスラム過激派のみならず、ロシア、欧州各国の極右政党など、そこに政治的思惑で便乗しようとする動きも目立ってきた。非常に危険な状況だ。
このような事態を招く責任の一端を、結果的に『シャルリーエブド』自体が担ってしまった。悪意がなかったとはいえ、このタイミングで預言者ムハンマドを表紙に描いたことは、やはり軽率と言わざるを得ない。預言者を肖像に描くこと自体、イスラムの多くの人々は嫌悪感を抱くのだから。
イスラム圏で高まる反発
当初、穏健なムスリム指導者はテロへの反対とフランスへの連帯を表明していた。しかし、風向きは変化した。今回『シャルリーエブド』紙の風刺画に非難の声を上げているのは、必ずしも過激なテロリストたちばかりではなく、一般のムスリムと指導者たちである。
『ガーディアン』によると、エジプトやエルサレムのグランドマフティ(イスラム法学の最高権威)もこの表紙を非難している。彼らは、昨年9月「イスラム国」の暴力行為を「非イスラム的」であると非難する手紙に署名し、アッラーの名のもとに行われるテロに反対してきた人物だ。
この記事は、冒頭でフィリピンでの1500人の抗議行動を報じつつ、『シャルリーエブド』の表紙に対するイスラム世界の反応を紹介している。まず、フィリピンの抗議行動の主催者は「表現の自由はアラーの高貴で最も偉大な預言者を侮辱することには及ばない」と訴え、参加者たちはその雑誌のポスターを燃やして彼らの拳を突き上げた。
パリ郊外に住むムスリムの女性は「彼らが彼らの好むものを出版するのは自由だ。しかし、それは私たちに影響を及ぼす。それは非常に私達を傷つけている」と嘆いた。
イスラム世界の最高権威アル・アズハルイスラム研究センター(カイロ)は『シャルリーエブド』が「憎悪を掻き立てる」と訴え、イラン外務省の女性スポークスマン、マルジェ・アフハムも、その漫画がムスリムを怒らせ「過激主義者の悪循環の炎を煽りかねない」と警告した。
もちろん、イスラム指導者たちは暴力的な反応を肯定してはいない。英国では50人以上のムスリム指導者が署名したアドバイスシートが公表されているが、そこでは「私たちの信仰に対してなされた嘲りに対する正当な不快感」を平和的方法で表現するように訴えている。
言論の自由は無制限か
ムスリムたちがその怒りを自制し、憎悪の悪循環に陥らないことを願うばかりだ。抗議行動の鎮静化の為には、当然、『シャルリーエブド』の側からの何らかのアクションが有効なのだが、それは簡単ではないだろう。殺された編集長シャルボニエが「膝を屈して生きるよりも、立ったまま死んだほうがましだ」と語っていたように、彼らは「表現の自由」に対して頑ななまでの信念を持っている。
ちなみにオランド大統領は、全世界で広がる抗議行動について「フランス人の言論の自由に対する愛着を理解しない外国において緊張がある」と語り、「私たちは抗議行動を見ているが、フランスではすべての信仰が尊重される」とも述べた。
しかし、このコメントは、単にフランスの立場を説明したものであり、ムスリムの宗教感情を害したことに対する真摯な配慮は伝わってこない。従って、このような言葉がムスリムたちの反感を宥めることができるかどうかは疑わしい。この点に関して、アジアを歴訪していたローマ教皇はインタビューに応じ、同じ宗教者として、ムスリムたちの心情を代弁した。
John L. Allen Jr.. “After Charlie Hebdo, pope says free speech has its limits” CRUX. Jan 15, 2015
まず、当然の前提として、教皇はテロ攻撃や殺人のような暴力を非難し「人は、彼自身の宗教の名によって、つまり神の名のもとに戦争や殺人を行うことはできない。神の名によって人を殺すのは異常なことだ」と語った。
その一方で、教皇は次のような比喩を用いて、言論の自由の限界について持論を述べる。「(親密な友人であっても)もし、彼が私の母を罵るような言葉を使えば、彼はその鼻にパンチをくらうだろう。それは普通のことだ」「他の人の宗教をからかったり、もてあそぶ人は、私の母に対して何かを言った友人と同じ目に合うリスクを持つ」と。
教皇は、言論の自由は、他の信仰を侮辱したり、怒らせたりする全面的なライセンスを意味しないと主張した。この教皇の発言は西欧社会において議論を呼ぶかもしれないが、現在のイスラム世界の反応を見る限り、その言葉は一定の説得力を持っている。ただ、西欧メディアの「言論の自由」に対する信念(信仰といってもいい)と、宗教者の感情との間に横たわる溝は簡単に埋められそうにない。
「文明の衝突」を避けよ
しかし「言論の自由」を巡る対立状況は、一刻も早く収拾しなければならない。なぜなら、欧州では極右政党が、イスラム圏ではの過激勢力が、それぞれこの対立を利用しようとする危険な動きがあるからだ。それは、まさに全地球規模での「文明の衝突」に発展しかねない危険性を持っている。「言論の自由」の範囲についての議論を、一旦棚上げしてでも、この分裂を収拾することが必要なのではないか。
理想論かも知れないが、『シャルリーエブド』の側も、誤解を招いた行動に対する謝罪など、一般のイスラム信仰に対する尊重の姿勢を示すべきであり、イスラム指導者たちも(英国の場合のように)ムスリムに対して冷静で平和的な対応を徹底して呼びかけるべきだ。この対立が、更なる暴力の悪循環に繋がる前に、テロへの反対と非暴力を訴える「連帯」を取り戻さなければならない。
2015年1月19日
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