イスラム・テロ再考
帰国したジハード戦士による新たなる危機
フランスのテロ事件が世界を震撼させている。同様の事件は世界中で進行していたが、今回は、周到な計画と訓練された技術による犯行という点で際立っており「中東の戦闘地域で訓練された兵士たちが母国に帰還してテロを起こす」という恐れていた事態が訪れたのではないか、と深刻に受け止められている。
CNNの報道では、射殺された犯人兄弟のうち兄のサイド容疑者が2011年、イエメンに渡航してアルカイダ系組織(AQAP)の武器使用訓練を受けたとされている。「イスラム国」も、ぞれぞれの国でのテロの実行を呼びかけており、同様の事件の続発が懸念される。
Peter Bergen and Emily Schneider. “How the Kouachi brothers turned to terrorism”. CNN. Jan 9, 2015
今回の事件について「イスラム国」の台頭によって退潮の危機にあるアルカイダがその存在を誇示するために引き起こしたという見方も一部にあった。これに対して『フォーリン・アフェアーズ』は、この事件がそのような偶発的なものではなく、アルカイダの長期的な策略の中で起きたものだと指摘する。同記事では、米国は依然としてアルカイダの脅威に対する警戒レベルを引き下げておらず、イスラム国の台頭が他のグループの退潮を促すのではなく、より多くのグループによって、より多くの戦士たちが訓練され、危機は相乗的に増しているとの見方を示す。
Jytte Klausen. “France on Fire”. Foreign Affairs. Jan 7, 2015
メディアを標的にするアルカイダ
実際に、AQAPなどのアルカイダ系組織は数年前からメディアを標的にした事件を計画してきた。イスラムの風刺画といえば2005年9月のデンマークの高級紙『ユランズ・ポステン』の事件がすぐに思い浮かぶが、その新聞社を標的にしたテロ計画も二度ほど未然に阻止されている。今回、テロの対象となったフランス『シャルリー・エブド』紙も同様に、以前からAQAPの公然とした標的であり、殺害を支持者に命じたリストの中に、今回殺された編集者の名前も明記されていた。
メディアは彼らにとって、憎むべき西洋文明の代表なのである。彼らは反宗教的で享楽的な世俗主義を自由の名のもとにまき散らし、預言者ムハンマドやイスラムの教えをあざ笑う「悪の象徴」だと考えられている。従って、この問題を受けて最も脅威を感じたのもメディア関係者だ。当然のことながら、一部メディアは迅速に反応した。APも、この風刺雑誌のイラストに関連するコンテンツを削除した。多くのメディアもこれに追随するかもしれない。同記事でもこれらの反応について触れており、それは間違った対応だ、と批判している。
やはり、西洋メディアにおける一般的な論調は「偏狭な宗教的過激主義VS言論・表現の自由」というものだ。『ナショナル・レビュー』に寄せられたコラムニストのジョナ・ゴルドベルクの意見は、その一つの典型だろう。
彼は保守派として「どんな宗教に対するいわれのない嘲りも好きではない」と明言する。基本的には『シャルリー・エブド』の風刺画のようなものの発表には反対だし、自由社会には、節度、寛容性や尊敬が必須であるとも主張する。しかし、テロリストたちが暴力と脅迫で、それを阻止しようとする現実がある以上、メディアは風刺画を載せることに委縮するべきではない、と語る。それは「私たちはあなたがたが怖い」というメッセージを送ることになり、テロリストの勝利となるからだ。自由社会を根底から破壊する暴力と脅迫に屈してはならない、というわけである。
Jonah Goldberg. “A Win for the Jihadists”. National Review Online. Jan 9, 2015
もちろん、テロは絶対に許されない。いくら自らの宗教的に敬虔な心情が傷つけられたからと言って、他人の命を奪ったり傷つけたりしていいはずがない。従って、宗教的風刺画を掲載した雑誌の軽率よりも、それに対する報復のために虐殺と言う手段を選んだテロリストの罪の方がはるかに重い。その点ではゴルドベルクの意見は正当である。
「表現の自由」云々以前に、殺人と暴力には断固反対しなければならない。そして、同時に、今回のテロで生命を失った方々と、そのご遺族に心から哀悼の意を捧げたいと思う。
「言論の自由」と「宗教リテラシー」
ただし、その点を確認したうえで、なお、宗教的な風刺画が、どの程度まで許されるのかという議論が別途必要だということは付記しておこう。決してテロリストに屈するからではなく、より共感に満ちた社会をつくるために。何故なら、宗教は、それを信じている者にとってはアイデンティティそのものであり、その名誉を傷つけられることは自らの肉親を汚されることと同様の痛みをもたらすからだ。
「宗教リテラシー」という言葉を最近耳にするようになった。実際に、日本のみならず、啓蒙思想以降の、西側の自由主義者たちの中に宗教を軽視したり蔑視したりする傾向があることは否定できない。自由の名のもとに、他人の信条を無視したり、貶めたりすることは、やはり問題だ。そのような傾向が、テロリストではない一般のムスリムにどんな苦しみを与えているか、再考する必要がある。
その点で、欧州における世俗的な文化や極右排外主義政党の伸長と、中東のイスラム過激派の台頭の間に関連性があることは無視してはならないと思う。参考までに、これは日本のメディアだが、JBプレスに北欧在住のみゆきボワチャ女史が、スウェーデンにおけるイスラム過激派の状況について報告している。そこでは、西欧に移民したイスラム教徒の、疎外、抑圧された宗教感情が、イスラム国などのジハード思想にのめり込む一因となっていることが示唆されている。ジハードに向かう少女は理由を聞かれて次のように答える。「欧州では、宗教的に生きることは許されなかった。ここでは、もっと『自由』だ」。
みゆきポアチャ. 「欧州に忍び寄るイスラム国の脅威」. JBpress. Nov 21, 2014
もともと宗教を敵視する世俗的な自由主義者は言うに及ばず、一般的な欧米人の中にも、ユダヤ教徒、イスラム教徒に対する偏見、蔑視が存在する。敵意が顕在化する時はいつもそうであるように、社会不安が増大する時には、常にユダヤ教徒、イスラム教徒がかわるがわる標的にされてきた。そのあたりの事情については、以下の記事を参照されたい。
Yascha Mounk. “Europe’s Jewish Problem”. Foreign Affairs. Sep 17, 2014
さきほどの北欧や、フランス等々、ヨーロッパでは極右政党の伸長が著しい。特に、昨年後半からは、これまで極右政党とは比較的縁遠いとみられていたドイツでも、シリアからの大量の難民の流入に伴って、東部ドレスデンを中心に「PEGIDA(西洋のイスラム化に対抗する愛国的ヨーロッパ人)」運動が台頭しつつある。今回のパリでのテロを受けて、「PEGIDA」のFacebookページの「いいね」の数が跳ね上がり11万9000件に達したという。世論調査でも反移民的なその主張に49%のドイツ人が完全に、あるいは部分的に共鳴すると答えている。
フランスでも、イスラム教徒に対する報復的な行為が頻発しているとの情報があり事態は予断を許さない。もちろん、ドイツの「PEGIDA」運動に対しても、メルケル首相はじめ、多くの有識者たちが人種主義に反対する意見を表明したり、ベルリンやケルンでは反「PEGIDA」デモが行われるなど、逆の動きも活発化している。
DAVID RISING. “Some 30,000 Germans Protest Against Anti-Islam Rallies”. abcNews. Jan 5, 2015
イスラム教徒に対する偏見や差別を一掃することができるのか、それとも、国内に紛争の種を永遠に抱え込んだまま衰退の道を歩んでいくのか。この問題が、ヨーロッパの未来を左右する重大な懸念材料であることは間違いない。
怒りに翻弄される宗教、ムスリムの苦悩
さて、ここまではヨーロッパ側が抱える問題点について見てきたが、当然のことながら過激なテロリストを生みだし、また育てつつあるアラブ地域にも目を向けなければならない。これについては『ニューヨーク・タイムズ』が丁寧なレポートを掲載している。
まさに世界中に広がるムスリムにとって、今は苦悩の時である。現実として「イスラムの名のもと」に多くの悲惨な事件が引き起こされている。一連の悲劇を記事は冒頭で次のようにまとめる。「過激派たちはシリアで西側のジャーナリストたちを斬首し、イラクで数千人を虐殺し、132人のパキスタンの学校の児童を殺害し、カナダの兵士を殺し、オーストラリアではカフェの常連客たちを人質にとった。そして、今、二人の銃撃者が12人の人々をパリの新聞社の事務所で虐殺した」。
果たして、これらの悲惨な暴力事件は、イスラムの教え自体に問題があるのか、それともイスラム自体ではなく、他の要因がそうさせているのか。アラブ世界も二つに割れている。
もちろん主流の学者たちは、イスラムの本質は、他の宗教と同様に決して暴力的ではないと語る。彼らは「預言者ムハンマドの慈悲と赦しへの命令、宗教上の問題を強制することの禁止、あるいは、自衛すら抑制せよという彼の勧告を強調する」。
以前に紹介した「イスラム国」の指導者に向けて公表されたイスラム聖職者や学者たちの手紙も、そのような主張に沿ったものであり「イスラムは寛容と慈悲の宗教である」と定義していた(1)。
では、何が過激なテロを生み出しているのか。それは、宗教、神学それ自体ではなく、「疎外感」と「怒り」であると言う。欧州におけるイスラムの移民たちの多くも無視され、疎外されていると感じてきた。フランスで公立学校でのスカーフ禁止が通達され、多くのムスリムを苦しめたことも記憶に新しい。総じて、オスマントルコの敗北を契機として、イスラム世界は歴史の主要舞台から滑り落ち、西洋列強によって引かれた国境線の中で、権威主義的で世俗的な主権者によって抑圧や格差に苦しんできた。
チュニジアの主流イスラム政党当局者サイード・フェルジャニは「抑圧されるか無視されていると感じる一部の人々は過激主義に向かうだろう。そして、彼らは手元に持っているがゆえに宗教を使う。もしあなたが攻撃され、あなたの手にフォークを持っていたら、あなたはフォークを持って反撃するだろう」と語り、疎外感や怒りの感情に宗教が使われているのだ、と指摘する。これは、カレン・アームストロングによる「宗教がハイジャックされている」との主張(2)とも一致するものだ。
イスラムが「平和の宗教」となるために
もちろん、報復のためにフォークやナイフとして使われている以上、イスラムの教えの中に、ナイフのような要素が全くないとは言えない。それは宗教一般に言えることだが、宗教は自己の内なる悪を厳しく律するものであるが故に、その刃が他人に向けられた時には恐ろしい武器となる。
イスラムという宗教そのものが問題だと主張する人々は、その点を指摘する。代表はエジプトの現大統領アブドルファッターフ・アッ=シーシーである。彼はイスラムの「改革」を聖職者たちに要求した。勿論、聖職者たちも、この点に気付いていないわけではない。だからこそ、繰り返し「あなたと戦うものに対して神のために戦え、しかし限度を超えてはならない」というクルアーンの章句を強調してきたのだ。しかし、その限度とは何なのか?限度を超えなければ暴力をふるってもいいのか?
むしろ、この問題については、先述の「手紙」にも書かれていたように「真のジハードは己の内なるエゴに対する戦いである」という点を強調するべきだろう。聖職者が先頭に立って、本当に戦うべき敵は、西洋人や世俗的な指導者ではなく、自己の内なる「疎外感」「怒り」だと教える以外に、イスラムが平和の宗教としての位置を取り戻す道はない。
イスラム教徒の弁護士アシフ・アリフ氏が『ハフィントン・ポスト』のフランス語版(引用は日本語版)に投稿した記事は、まさに、そのような立場を表明したものだ。彼は、ムハンマドが毎日女性からゴミを投げつけられながらも忍耐し、かえってその女性を気遣ったというエピソードを引用する。
「この忍耐と己の内なる憤怒との戦いこそが、真のイスラム教ではなかろうか? これこそが寛大な開祖からのメッセージなのではないか? イスラム教が強制、兵器、そして暴力でしかないと考える人々は、この上なく美しいメッセージを見逃している」という彼の指摘は全面的に正しい。
Asif Arif. 「我々イスラム教徒は「シャルリー・エブド」を支持する」. The Huffington Post. Jan 8,2015.
釈迦も己の内なる煩悩との戦いを説いた。イエス・キリストも人の目にあるちりを見ないで、自らの目にかかっている梁を見よと教えた。儒者である王陽明も「山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難し」と書き、自らの心を律することの難しさと重要性を説いた。
世界的に怒りや憎しみが蔓延している現在、宗教が戦争や暴力の源泉ではなく、平和をつくりだすものだということを証明するためにも、宗教者自身が創始者の真のメッセージが何なのか、もう一度、吟味しなければならないだろう。宗教は怒りや憎しみに振り回される道具ではなく、怒りや憎しみを乗り越える力だと証明すべきだ。そして、それは決してムスリムだけが直面している課題ではない。
(1)徒然の民草.「イスラム国への手紙」. peace&Religion. Oct 6, 2014
(2)Karen Armstrong. “思いやりの憲章”. TED. Feb, 2008
2015年1月10日
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