クリントンとトランプ、「傲慢」と「怒り」

Column culture

ロバート・E・ケリーが、『Newsweek』に寄せたコラムの中でトランプを「米国史上最悪の大統領候補」と呼び、彼が煽った憎悪が、選挙後の米国社会に更なる混乱を生むだろうと懸念している(1)。もちろん、ケリーがトランプに対して抱く懸念自体は理解できる。彼の差別的発言や無責任な放言を憎む人々から見れば、トランプ大統領の出現は米国と世界の終わりをもたらすものと見えるだろう。まるで「荒らす憎むべきものが聖なる場所に立つのを見たならば、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げよ!」(マタイ24:15)と警告する聖書の預言のように。

他方、ヒラリーならば安心なのかというと、それも違うだろう。実際、現在の米国社会に渦巻く憎悪や党派的対立の原因は、トランプ個人に帰せられるべきものではなく、ヒラリーもそこに加担した民主党オバマ政権の側にも責任があるからだ。彼らは極端に世俗的でリベラルな政策を推し進め、福音派を初めとする保守的な人々の怒りを引き起こした。米国の繁栄と歴史を支えてきたという自負心を持つ白人保守層からすると、彼らこそ「荒らす憎むべき者」なのだ。

このように、互いを罵りあう不毛な対立状況は、それぞれの候補を支持する最大の理由が「対立候補に対する嫌悪感」であることに現れている。そういう意味では、トランプ現象は、米国を混乱に陥れる原因ではなく、修復不能なほどに分断された米国社会が生み出した結果に過ぎない。従って、『Newsweek』でのケリーのようにトランプの出現を嘆いても何も解決しない。むしろ、こうした社会的分断を生み出した米国社会の病をこそ直視すべきだ。そこで、この文章では、現在の米国社会の分断状況について、少し整理しておきたいと思う。
 
 
対立は、白人社会内部に根差している

まず、この点は押さえておくべきだと思われるが、トランプ、クリントン両陣営の中心部にあって、激しくののしり合っている人々は、その多くが白人である。トランプ支持者は白人男性が多く、クリントン支持はマイノリティが多い、ということで、白人対マイノリティの戦いであるかのような錯覚も覚えるが、この社会的分裂の最大の対立軸は、白人指導層内部の「世俗的(非宗教的:Secular)リベラル」対「宗教保守」という思想的なものなのである。

まず、メディアや政界、財界など「エスタブリッシュメント」の多くを占める世俗的リベラルにとって、トランプを支持する白人保守層は、福音派、カトリックを問わず、古臭い価値観に固執する「頑固者」であり「馬鹿者」だ。それは、今回の選挙中にウィキリークスからリークされたヒラリー陣営幹部のメールのやり取りからも明らかである(2)。その中で、彼らは、保守的なカトリック教会指導者と、聖職者を中心とするヒエラルキーを口汚く罵った。彼らにとっては、伝統や宗教的価値に囚われない多様な生き方が尊重され、弱者救済を目的とした社会的再分配が機能する社会こそが理想であり、伝統的な道徳、倫理に固執し、古いアメリカンドリームを吹聴する人々こそ、米国の理想を「荒らす、憎むべき者」たちなのだ。

一方で、トランプを支持する白人保守層は、そうした世俗的リベラルこそが、米国の本来的な在り方を変質させ、社会を混乱に導いている元凶だと考えている。彼らにとって、まず何よりも米国は「神のもとにある国」だ。ジョージ・ワシントンが述べた通り「宗教と道徳」こそが国の繁栄を支える柱であり、米国は敬虔な信徒たちの共同体として、神の祝福を受けて来たのである。今年はじめに亡くなったアントニン・スカリア連邦最高裁判事は、そのような考え方を代表する一人だった。彼は、亡くなる直前、ルイジアナで講演し「私たちが神に栄光を捧げてきたがゆえに、神は私たちの国に恵みを与えてくれたのだ」と語り、政府は非宗教よりも宗教を支持すべきであり、憲法修正第一条もそれを禁じていないと明確に述べた。(3)

彼らにとって、米国人が独立と共に勝ち取った自由は、まず何よりも「信仰の自由」と、それに基づく「良心に従って生きる自由」であり、決して、感情や欲求のままに生きる「放縦」ではなかった。しかし、今、この国では、信仰的な理由で同性婚へのサービスの提供を断ると、告発され罰金を科されてしまう。「同性間の性行為は好ましくない」という宗教的な価値観を表明すると「差別である」と罵られる。彼らの目から見れば、信仰の模範として「丘の上の町」となるべき米国が、今や、バベルの塔の如くに「人間」の個人的指向や選択を絶対的な価値に押し上げ、世界中に不道徳をまき散らすバビロンの淫婦に変わり果ててしまったように見えるのだ。

このように、何を本来的な理想とし、何を「荒らす憎むべき者」とみるのかが、その両グループの間で決定的に食い違ってしまっていることが、ここまで対立が先鋭化した最大の原因なのである。従って、対立の主軸は、実は、マイノリティ対白人でも、女性対男性でもない。究極的には、建国以来、米国社会を担ってきた白人社会内部の対立なのだ。その対立が、お互いの思想や価値観をかけた熾烈なものになっている。トランプも口汚いが、トランプ当選を阻止しようとするリベラル陣営が描く、トランプ支持者像もいい加減ひどいものである。すなわち「盲目的信仰にこだわる頑固者」で「社会の底辺におちた不満を憎悪に変える低学歴な低所得者たち」であり「社会の変化を恐れる白人至上主義のレイシスト(差別主義者)」というものだ。そこには、かつてこの国を共に築き上げてきた人々を侮辱する、高学歴、高収入の(と称する)知的エスタブリッシュメントの傲慢性がある。
 
 
信仰者と世俗主義者が共存するアメリカモデル

かつて、建国の時代、米国は、啓蒙思想の流れをくむ「理神論」の影響を受けたトマス・ジェファーソンなど世俗的な自由主義者と、パトリック・ヘンリーや、ジェームズ・マディソンなど、敬虔な信仰を持ち宗教を擁護する人々が共同して作り上げた国だった。ジェファーソンなどは、既存の宗教や教権主義に反発心を覚えていたことが知られており、他方、ヘンリーはキリスト教の公定宗教化を主張し、マディソンは信教の自由を主張するなどの違いはあったが、宗教そのものの価値や社会的役割について否定する者は、ほとんどいなかった。

その点は、王権と結びついたカトリックと世俗的な自由主義者が先鋭的に対立したフランスとは、全く事情が異なっていた(これには、宗教改革後、プロテスタント中流階級として成長しつつあったユグノーが、迫害によって壊滅的打撃を受けたことも影響している)。近代化、民主化、人権の保障が、宗教の否定と結びついていたフランスとは異なり、米国では、近代化、民主化、人権の保障などを、むしろ宗教が支え、促進する役割を持つと考えられていた。

その幸福な結合の象徴こそ、いまだに圧倒的な人気を誇るリンカーン大統領である。南北戦争を勝ち抜き、第二の建国ともいうべき合衆国の再統合をもたらしたリンカーンは、敬虔なクリスチャンであると共に、自由、人権、平等など近代的な民主主義的価値の擁護者であった。弁護士出身ではあるものの学校教育を満足に受けていなかった彼は、聖書(神の法)と法律(この世の法)の知識しか持っていなかったと言われるほどだ。

本来、世界に冠たるアメリカモデルとは、こうした信仰と知性の調和、言い換えれば、敬虔な宗教生活と、民主的で豊かな世俗社会の調和にこそあったはずである。この「友好的な政教分離モデル」では、特定の宗教が政治権力を独占することを警戒しつつも、宗教それ自体は、社会・国家に有益なものとして尊重されてきた。しかし、その米国が、現在、信仰と人間的知性の対立、信仰者と世俗主義者との対立という、不毛なフランス革命モデル、つまり「敵対的な政教分離モデル」に変質しようとしている。最初に攻撃を仕掛けたのがどちらかを断定することは難しいが、世俗的リベラルがより攻撃的であり、宗教保守がより防御的であることは確かである。いずれにせよ、結果として生まれた信仰者と世俗主義者の対立が、社会の分裂をもたらし、悲劇的な結末をもたらすことは、明らかな歴史の教訓として私たちの目の前にある。その点を指摘したのが、『思いやりの憲章』で知られるカレン・アームストロングである。
 
 
世俗主義者による宗教への軽蔑が過激主義をもたらす

彼女はガーディアン紙に寄稿した『宗教的暴力の神話』(4)の中で、中東を席巻するISなどのジハード主義者をめぐって、狂的信仰に全面的に責任を押し付けようとする世俗主義者の主張を批判した。彼らの主張の根底には、サム・ハリスやリチャード・ドーキンスのような無神論者による「正気で礼儀正しい人々を全くの狂気に動機づける強い力をもつのは宗教的信仰だけだ」「多くのムスリムは宗教的信仰によって混乱し、…切り取るのが困難なひねくれた連帯を生み出す」という考え方が存在する。ISやアルカイダのような狂的集団の存在が彼らの主張に一定の説得力を持たせるのだが、アームストロングが指摘するように、むしろ「戦争と暴力は、常に政治世界の特徴であった」。従って「教会を国家から分離することが平和の条件である」と考えたのは、30年戦争以降の西ヨーロッパ世界だけに現れた特殊な思想にすぎない。

実際に、宗教的な狂信から解放されたはずの世俗国家で、偏狭な迫害と暴力が振るわれた例は枚挙にいとまがない。その迫害と暴力の対象は、多くの場合、伝統的宗教を信奉する人々であった。その典型的な例は、大革命後のフランスで吹き荒れたカトリックに対する弾圧、虐殺だ。1794年、革命政権に対するカトリック信徒の抵抗を鎮圧するために、革命軍は容赦のない虐殺を行った。その作戦の終盤、革命軍のウェスタ―マン将軍は「ヴァンデはもはや、存在しない。私は子供たちを馬のひづめの下に押し潰し、女性たちを虐殺した。道は死体に覆われている」と書いた。「自由、平等、博愛」の三色に染められた革命旗の背後には、無慈悲な宗教弾圧があったのである。それ以降、フランスでは、宗教的な要素が、公権力、公共生活から排除される傾向が一般的となった。現在の、ムスリム女性のスカーフ禁止などにも、そうした傾向は受け継がれている。過激派のテロの標的となった『シャルリエブド』も啓蒙的精神による宗教への侮蔑を体現した風刺雑誌である。

こうした「近代化=世俗化」と捉え、宗教をその阻害要因として排斥する傾向は、第一次大戦後、トルコ、イラン、エジプトなどの世俗政権に受け継がれた。トルコのケマル・アタテュルクは、トルコの近代化を成し遂げた英雄として、欧米の世俗主義者には頗る評判が良いが、イスラム教徒にとっては、スーフィ教団を非合法化して資産を押収し、マドラサ(イスラム学校)を閉校させるなどした憎むべき独裁者だった。アタテュルクは、イスラムを「腐乱した死体」と呼んだという。イランのパーレビ王朝の兵士たちは、通りで女性たちのベールを引きはがし、エジプトやチュニジアにおいても、世俗政権によるイスラム原理主義(必ずしも暴力的ではない)勢力への弾圧が行われた。

20世紀後半からの、アメリカによる政治的、軍事的介入が、一部ムスリムの過激化を加速させた側面も確かにあるのだが、アームストロングの視点によれば、世俗主義を拒絶する彼らの基本的態度を形成したのは、むしろ、フランス革命の流れをくんだ世俗的政権による、宗教勢力への理不尽な弾圧にあったのである。彼女は言う。
 
 
世俗主義は、西側にとって疑いなく価値あるものだったが、私たちが、それを普遍的な法だとみなしたのは間違いだった。それは、ヨーロッパの歴史プロセスに特有でユニークな特徴として現れたものだ。……異なった環境の中で、近代化は別の形をとるだろう。多くの世俗思想家は、現在「宗教」のことを、本質的に好戦的で偏狭であり、平和を好み人道的な自由国家に対して、非合理的かつ後ろ向きで暴力的な「他者」であるとみなしている。未開の宗教的信条の沼にはまった、絶望的に「原始的な」先住民に対する、植民地主義者の見方……。世俗主義が力づくで適用される時、それは、原理主義者の反応を引き起こした。そして、常に攻撃にさらされる原理主義者の運動は、より過激になることを歴史は示している。この失敗の果実は中東全域にわたって展示されている。私たちがISISの戯画化を恐怖をもって見つめる時、その野蛮な暴力は、少なくとも部分的には、私たちの軽蔑によって導かれた政策の子供であるかもしれない、と認めるのだ。
 
 
この状況は、米国内においても、そのまま当てはめることができるだろう。そこでは、西洋の植民地主義者がムスリムを軽蔑する代わりに、世俗的なリベラルのエスタブリッシュメントが、保守的な白人中流層(低所得者を含む)を軽蔑し、「頑固者」「時代遅れ」「差別主義者」と罵っている。アームストロングが引用文中で述べているように「常に攻撃にさらされる原理主義者の運動は、より過激になる」。現在、米国内の保守的キリスト教徒は、自分たちが世俗主義による攻撃にさらされている、と強く感じており、それは、世論調査の結果にも明らかである。そうした状況が、彼らの多くをして、トランプ支持に走らせているとは言えないだろうか。(5)
 
 
不毛な対立モデルからの脱却を

もちろん、宗教勢力と、世俗的政治権力の癒着ないしは混同がつくりだした中世的な腐敗と硬直状況は、いずれ破られる必要があった。しかし、それを打破して作り上げられる社会は、宗教と政治を対立させるのではなく、それぞれの役割と区別を明確にしつつ、協働を図るものであるべきだろう。その困難な挑戦に晒されつつ、一つの成功的なモデルを示したのが、アメリカの建国であり、リンカーンの勝利であったはずだが、現在、その遺産は食いつぶされ、むしろ、不毛な対立モデルの潮流の中に米国は自らを投げ込もうとしている。

米国が、現在の対立状況を越えて、ジェファーソンとヘンリー、マディソンなどが、共に独立のために手を携えたような建国精神の原点に返ることを祈るばかりだ。世俗主義者が追求する人間の幸福と、宗教的保守主義者が固守しようとする道徳的価値は、究極においては一致するはずだ。世俗主義者は「傲慢」と「軽蔑」、保守主義者は「被害者意識」と「怒り」という、それぞれが自らの信条に反する感情に囚われてはいないだろうか。特に、世俗的リベラルは、「宗教に対する軽蔑」という明らかに問題のある遺伝子をもって、自覚のないままに、国内では福音派の、中東ではムスリムの怒りや憎しみを煽っている。「内部で争う家は立ち行かない」。米国の人々は、リベラル、保守を問わず、早くその危険性を認識すべきであり、我々は、それを他山の石とすべきだろう。
 
 
 
 
 
(1)ロバート・E・ケリー. 「トランプが敗北しても彼があおった憎悪は消えない」. Newsweek日本版[online]. Nov 4, 2016
 
(2)”Catholic bishops condemn ‘ugly’ and ‘anti-Catholic’ emails between Clinton team”. Catholic Herald. Oct 14, 2016.
 
10月にウィキリークスが公表したメール資料によると、ヒラリー・クリントンの選挙運動チームが交わしたメールの中にカトリックを中傷する文章が含まれていることが明らかとなった。例えば、選挙運動団体「Voice for Progress」のチェアマン、サンディー・ニューマン(Sandy Newman)は、クリントン陣営の選対責任者ジョン・ポデスタ(John Podesta)に宛てたメールの中で「カトリック女性(とそのパートナー)の98%が否認を使用しているのに、司教たちは避妊広告に反対している。…カトリック教会の中で、信者たち自身が、中世的独裁の終わりと小さな民主主義の開始、ジェンダー平等に対する尊重を要求する「カトリックの春」が必要だ」と述べ、「アラブの春」で倒された独裁政権と、カトリック教会を同列に並べた。また「Centre for American Progress」のジョン・ハルピン(John Halpin)も「彼らは組織的思考とひどく遅れたジェンダー関係に引き付けられているに違いないし、キリスト教民主主義を全く知らないに違いない」と書いた。

(3)Tobin Grant. “Justice Scalia legacy on religion: A look at the last year of his life“. Religion News Service. Feb 13, 2016
  
(4)Karen Armstrong. “The myth of religious violence”. The Guardian [online]. Sep 25, 2014 06:00BST

(5)“American Views on Intolerance and Religious Liberty in America”. Lifeway Research. Sep14-28, 2015
 
同調査によると、「現代アメリカで、キリスト教徒は、不寛容の増大に直面していると思いますか?」という問いに対して「強くそう思う」割合が、2013年の28%から2015年には38%と増加している。「いくらかそう思う」も合わせた「そう思う」の合計も63%に上るが、とくに福音派のプロテスタントに限ると、その割合は82%に跳ね上がる。週一回以上、宗教的な行事に関わる層においても、76%の高率だ。「米国において宗教の自由は衰退しているか」という質問に対しても、同様の傾向が表れている。

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