「離婚手続きの簡素化」にこめた教皇の意図
1月23日金曜日、フランシスコ教皇は、バチカンの結婚を扱う判事たちに「人の救済を、法規主義の狭い海峡に閉じ込めるべきではない」と警告し、婚姻無効のプロセスの簡素化および費用の低減を要請した。
彼は「秘跡は私たちに恩恵を与えてくれる」が、婚姻無効の手続きが複雑で高価であるために、多くの人が再び結婚の秘跡にあずかる道を閉ざしている、と指摘し「私はすべての結婚手続が無料になることをどんなに願っているだろうか」とも述べた。
昨年秋の世界司教会議においても、離婚・再婚家庭が聖餐を受けられない問題が討議されていた。これも教皇による問題提起だったが、一部の保守的な聖職者たちの反発を引き起こしていた。
教皇は、離婚に対して寛容なのだろうか?伝統的な一夫一婦の結婚にこだわるカトリックの教義は変更されるのだろうか?離婚に限らず、中絶、同性愛者などの話題にフランシスコが言及するたびに、保守・リベラル両陣営に少なからず波紋が広がっていく。
教皇の真意はすべての信徒に「神との出会い」を与えること
しかし、そろそろ私たちもフランシスコ教皇の基本的なスタンスに慣れていくべき時期だろう。今回も、教皇の意図は、離婚に関する教義の変更という点にはない。本当に救いを必要とする人々に手を差し伸べられる教会に変革する、という彼の一貫したアジェンダに基づくものだ。
従って、彼の要請は、単に手続きの簡素化や、料金の問題にとどまらない。彼は司祭や教会の法学者たちに、信徒たちに対して慈悲深くなり、(婚姻無効手続のみならず)規則が、恩恵や秘跡の邪魔にならないようにしてほしいと語った。
この要請は、Rota(ローマの控訴裁)の新年度の出発にあたり教皇が成した演説の趣旨である。その朝、チャペルでのミサにおいても彼は同様の主題で説教をしたという。
「告白は、しばしば形式的な手順のように見えます」「すべては機械的になされるものでしょうか?違います。もし、そうなら、どこに出会いがありますか?あなたを赦し、あなたを抱きしめて喜ぶ主との出会いは…」。
告白は「汚れを落とすためにドライクリーニング屋に行くようなものではありません。違います。それは私たちの父に会いに行くことです。彼は私達との和解を望み、私たちを赦して喜ぶ方なのです」。
すなわち今回の勧告も、不幸にして離婚という結果に至った人々が、なるべく早く立ち直り、聖餐や、結婚(再婚)という秘跡にあずかれるように、という司牧的配慮である。間違っても、安易な離婚を推奨しているわけではない。
離婚した人々に対する教皇の思い
念のためアルゼンチンの新聞『La Nacion』の教皇インタビュー(昨年12月)における離婚者に対する発言も確認しておこう。
「再婚した離婚女性のケースにおいて、私たちは、問題を提起しました。私たちは彼らをどうしますか?彼らにどんなドアを開くことができるでしょうか?これは司牧的な懸念でした。私たちは彼らが聖餐を受けるのを許すでしょうか?聖餐だけが解決ではありません」
「解決は、統合です。彼らは、たしかに破門されてはいません。しかし、彼らは、洗礼を受けた子供たちの名付け親になることができないし、ミサの朗読は、離婚女性のためにはなされません。彼らは聖餐を受けられず、日曜学校で教えることもできません。彼らがすることが許されないいくつかのことがあります。私は向こうにそのリストを持っています。来てみてください。もし、私が、これらのどれかを明らかにすれば、彼らは事実上、破門されているように見えるでしょう。だから、少しばかりドアを開けようと言うのです」
「なぜ、彼らは名づけ親になれないのでしょうか?『だめだ、だめだ。彼らは名付け子にどんな証しをするというのか?』。それらの男性と女性はこのように証しするでしょう。『私の親しい子供よ。私は過ちを犯しました。私は間違っていました。しかし、私は主が私を愛してくださることを信じています。私は神に従います。私は、罪に負けませんでした。私は進んでいきたいです』。それこそまさにクリスチャンではないですか。では、もし、私達、堕落した者たちのうち政治的なペテン師が誰かの名付け親として選ばれたとしたらどうでしょう?もし彼らが教会によって結婚式を挙げていれば、私たちは彼らをうけいれるのですか?彼らは名付け子にどんな証しをするでしょう?腐敗の証しをするのですか?物事は変わらなければなりません。私たちの基準には転換が必要です」
これが教皇の真意であり、彼が、離婚手続きの簡素化に込めたテーマも同様である。それは、不幸にして離婚という境遇に至った人々に対して、聖職者たちが「神の愛」をもって対することができるか、という姿勢の問題であり、教義自体の変更ではない。
補足1:フランシスコ教皇の結婚観
バチカンが主催した「男女の相補性」について異宗教間の対話が行われた(昨年11月)際にも、教皇自身は次のように発言した。以前にも紹介した(1)ものだが再掲しておこう。
「子供たちは、父親と母親のいる家族の中で育つ権利をもっています」
「私たちは、現在、はかない刹那的な文化の中で生きています。その中で、ますます多くの人々が、公的な誓約としての結婚を全くあきらめてしまっています。習慣やモラルにおけるこの革命は、しばしば、自由の旗を掲げてきました。しかし、実際には、それは、霊的、物質的な荒廃を、数えきれない人々にもたらしてきたのです。特に、最も貧しく、最も弱い人々に…。常に苦しむのは彼らであり、この危機においても最もそうなのです」
「結婚についての更にもう一つの真実を高く掲げましょう。連帯と忠誠と実り多き愛への永続的な関与は、人間の心情の最も深い願いにこたえるものです」
補足2:「離婚革命」への対処
教皇の「離婚した人々に対する司牧的配慮」は評価されるべきものだが、上記のような結婚の理想を成就するためには「離婚の危機にある家庭をいかに守るか」という努力も必要だろう。フランシスコ教皇の発言では、どうしても前者が強調される傾向があるために、米国の保守的キリスト教徒はもどかしさを感じてしまうようだ。
実際、保守派のクリスチャンたちが戦う「文化戦争」においては、同性婚、中絶などと並び、離婚問題も非常に重要なイシューである。例えば、昨年10月にテネシー州ナッシュビルで行われた「福音、同性愛、そして結婚の未来」会議(南部バプテスト連盟、倫理と宗教的自由委員会主催)では、南部バプテスト神学校の第九代総長アルバート・モーラー・ジュニアが「離婚革命は、同性結婚よりも、結婚(の価値)を更に傷つけた」と語っている。
Rod Dreher. “America: From Israel to Babylon”. The American Conservative. Oct 29, 2014
同性婚の問題が顕在化する前に、異性間における結婚の破たんがあったと彼は指摘する。結婚以外の性関係のリスクを下げる避妊の一般化。そして、結婚を(永遠なるものではなく)それが終わるまでのあいまいな仮定の結合、つまり単なる契約の次元に貶めてしまったこと。男女の「結婚」の価値を破壊したのは、同性愛者ではなく、「結婚」をいい加減に扱った異性愛者自身であったという嘆きだ。
モーラーの発言を参照しつつ、ゲートウェイ・ハイツ教会の牧師、コリー・ウイルソンは結婚文化の再生は「神学校と地方の教会から始まる」と書いた。つまり結婚(あるいは離婚)に対する聖書の正統的な解釈と、一つ一つの家庭と向き合う地道な牧会活動こそが重要だ、という意味である。
Cory Wilson. “A BIBLICAL VISION OF MARRIAGE”. First Things. Nov 12, 2014
彼は、「離婚」について「例外箇条」の濫用が、安易な離婚を増大させ、結婚の真の価値を貶めたと指摘した。本来、結婚は、イエス・キリストの教会に対する愛のかたちを現したものであり、文字通り「病める時も貧しき時も」、相手がどんな状態にあったとしても貫くべき絶対的な愛の誓約だった。
しかし「だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである」(『エペソ人への手紙』)という聖句を引き合いに「相手が不品行(不倫)を犯した場合には離婚してもよい」と解釈する傾向が現れた。しかし、ウイルソンは、果たしてそれがキリストの愛だろうか、と問いかける。聖書の全体の文脈をたどれば、たとえ、相手が不品行を行っても「神が結んだものを人が離してはならない」し、結婚の誓約を最後まで貫くことが福音の本質ではないか、と主張する。
もちろん、相手が不倫していることを知ってなお、結婚生活を貫くのはとても困難な事だ。しかし、それこそが牧師たちの責務であると言う。彼自身の司牧生活の経験からしても、難しい状況にある夫婦とリビングルームで向かい合うのは簡単な事ではない。しかし、それでも「宗教改革の息子として」、聖職者たちは、現実の生活から物事をみるのではなく、「聖書のみ」を基準にすべきだと訴える。
このように必死に「結婚の価値」を守ろうともがいている米国の保守主義者たちの現状を見れば、フランシスコ教皇の発言に敏感に反応するのも仕方ないことだと言えるだろう。ただし、ウイルソンの聖書の本質に立ち返ろうとする姿勢と、信徒たちの現実に向き合う牧会活動を重視する態度は、フランシスコの教会改革の方向と本質的には一致している。
崩壊した家庭であふれる社会の現実と、目指すべき永遠の結婚の理想とをどのようにして結びつけるのか?バチカンと米国、カトリックとプロテスタント、それぞれの苦闘は続いていく。
(1)徒然の民草. 『バチカンで「結婚」についての宗教間対話』. Peace&Religion. Nov 26, 2014
2015年2月4日
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