「私はシャルリー」運動の「光」と「影」
ル・ペンの不在が語る「連帯」の陰の「分裂」
風刺新聞『シャルリーエブド』襲撃事件の舞台であるパリに60万人が集結し「私はシャルリーだ」というスローガンを掲げて行進した大集会は、世界的なニュースとなった。パリの行進にはオランド大統領、メルケル首相をはじめ40人以上の国家指導者たちが参加し、フランス全体での参加者は370万人に上ったという。それを『ニューヨークタイムズ』は、「911攻撃以来、イスラム過激主義の脅威に対する西側の連帯を最も顕著に示した」と表現した。また、インターネット上でも様々なソーシャルメディアを通して、世界中からフランスへの「連帯」が表明された。
確かにイスラエルのネタニヤフ首相とパレスチナ自治政府のアッバス議長が並んで行進する映像は、あらゆる壁を越えてテロに対する反対が表明されたと感じさせるに十分な構図である。しかし、よく見るとそこには重要な人物の姿が欠けていた。ほかならぬフランス国内の極右政党「国民戦線」党首のマリン・ル・ペンである。その事実は、世界的「連帯」という演出の陰に隠れた、フランス国内の、また全ヨーロッパの「分裂」を強く印象付けている。
実際に多くのメディアがこの問題に警鐘を鳴らした。『ニューヨークタイムズ』も、イラストレーターのPablo de Gastines氏の「『国民戦線』がこの状況をフランス国民の分断のために使うことを懸念している」というコメントを紹介した。実際、今回の事件は、イスラムへの敵意を煽る極右政党に利用されかねない。
テロ事件がヨーロッパの更なる分断を招く可能性
既にフランスでは50件以上のムスリムを対象とした襲撃事件が起きているが、ドイツでもこの事件を経て反イスラム的な動きが勢いを得ようとしている。先日の記事でも触れたPEGIDA(「西側のイスラム化に対抗する愛国的ヨーロッパ人」)運動だ。毎週ドレスデンで開かれるPEGIDA集会は、10月にわずか300人で始まってから徐々に人数を増やし、今回のテロを受けて開かれた直近の集会には過去最高の25000人が集まった。『クリスチャン・サイエンス・モニター』のヨーロッパ支局チーフ、サラ・ミラー・ルラナが書いている。
メルケル首相は、年始の声明の中でPEGIDA集会に参加しないよう国民に呼びかけていた。しかし、それは効果がなかったようだ。税関吏のピーター(彼らの多くは名前、とくにラストネームを明かしたがらない)は、参加した理由として「フランスの犠牲者に対する敬意を払うため」と語った。
しかし、フランスのテロ事件に対する弔意は、彼らにとってイスラムに対する恐怖や嫌悪感と表裏一体である。彼は、ドイツの多文化的な変化を恐れていると語った。「私は私の子供にキリスト教の国で育ってほしいのです」「パリでの攻撃は、まさにヨーロッパのイスラム化のリスクについての私の恐れを確かにしました」。
同様のことを、PEGIDA運動に先立ってドイツの極右勢力を率いてきた政党「ドイツの選択肢(AfD)」の地方リーダー、アレクサンダー・ゴーランドも語っている。「この大虐殺は、イスラムの迫りくる危険についての多くの人々の恐れを、笑ったり無視した者たちが間違っていたことを証明した」。彼らは今回の事件について「だからそう言ったじゃないか」というスタンスを取っている。
このような動きが加速するのではないかという懸念には根拠がある。実際に、2004年、イスラムに対して批判的な映画監督テオ・ファン・ゴッホが過激主義者によって殺された後、オランダ自由党のギート・ワイルダーは基盤を作った。そして現在、かれの政党はオランダ政界に確固たる地位を築いている。統合か、分裂か、ヨーロッパの今後は予断を許さない。
テロには反対する、しかし「私はシャルリーではない」
また、今回の大集会については、もう一つ大きな問題が潜んでいる。それは世界的なムーブメントの主役となった「私はシャルリーだ」というスローガンである。犠牲者を悼み、テロに対して反対を表明することには心から共鳴しても、「私はシャルリーだ」と叫ぶことには抵抗があるという人は少なくないのではないか。以下に紹介するコラムニスト、アシュリー・ヤンの投稿はそうした意見の典型である。
彼は、事件後すぐにフランスのムスリムの事件に対する反応をシェアすることで「私はシャルリー」と連帯を表明するムーブメントに飛び乗った。しかし、実際に『シャルリー』紙に掲載されていた風刺漫画を見て、その行動を後悔する。彼は10人の亡くなったジャーナリストを「自由言論の殉教者」として祭り上げる風潮に疑問を呈する。
『シャルリーエブド』のジャーナリストたちは「風刺漫画はイスラムそのものではなく狂的な信仰を批判するものだ」と主張する。しかし、ヤンはそのもっともらしい主張に鋭い疑問を投げかける。「もし、本当にそうした意図があるなら、なぜ、イスラムを扱った風刺漫画のほとんどに預言者ムハンマドを主演させたのか?暴力的な過激主義を批判したいなら、ウサマ・ビンラディンや「イスラム国」の指導者をより多く描くべきではないか?」。
預言者ムハンマドは、一部の過激主義者だけでなく、他の圧倒的多数の穏健なムスリムにとっても信仰の中心である。そのムハンマドを敢えて繰り返し嘲笑するからには、少なくとも作家の中に、イスラムに対する誤解、偏見、ないしは悪意があったと言えるだろう。彼は言う。「その新聞のスタッフは、イスラモフォビア(イスラム嫌悪病)にかかっている社会のひねくれたユーモアに訴えるためにイスラムの信仰を故意に歪めて伝えたか、過激主義の犯人と全体としての信仰の区別をするために十分な注意を払わなかったかのどちらかだ」と。
ただ、ここで敢えて私見を言えば、後者の「注意不足」というのはあり得ない。なぜならこの記事でも指摘されているように「同紙は風刺漫画で心を痛めたムスリムたちから複数の訴訟を起こされていた」からだ。彼らは明らかに、フランス社会に蔓延するイスラムへの偏見に乗じて、故意にムスリムを不快にし傷つける言論活動を行っていたのである。
フランスが本当に取り組むべきこと
これはもはや「言論の自由」の問題ではなく、人種差別、宗教差別の次元の問題である。ちなみに、米国でも「言論の自由を守る」という観点から『シャルリーエブド』を支持する意見が主流だが、今週初めにその雑誌が復活した際、ムハンマドを風刺した表紙を載せるか否かで米国のメディアの対応が分かれたという。基本的に米国も自由の国だが、大半の新聞では特定の宗教を軽蔑、侮辱するような文章、画像の掲載を自粛している。
米国は、欧州での迫害を逃れたプロテスタント各派が中心となって築いた国であり、その『政教分離』の理念も、国家による特定宗教の強制から各人の信仰を擁護するという意味合いが強い。しかし、フランスの『政教分離』は宗教への侮蔑、敵意が根底にある世俗主義に基づいたものだ。従って、表現の自由を論ずる際にも、宗教、信仰に対する配慮はほとんどないに等しい。まさに『シャルリーエブド』は、そのようなフランス型の自由の継承者だと言えるだろう。
ヤング自身は、表現の自由、言論の自由は守られるべきものだと考えている。しかし「彼らの疎外された社会的地位や、内部の過激主義の高まりに苦しんでいる事実をジョークのネタにされた500万人のムスリムたち」の心情を思う時、そのような代償の上に立つ自由が本当の自由なのか、と問いかける。そういったフランスの事情に疎いまま『シャルリーエブド』を支援することは、外国人嫌いに乗じてムスリムを反西洋の侵略者として描くことを支援し、ムスリムたちを苦しめることになると訴える。
彼の主張は、『シャルリーエブド』の風刺画について、ネットやテレビなどで、ためらいがちに違和感を表明した日本人の感覚とも通じるものだ。テロには絶対反対だ。人命を暴力的に奪ったテロリストたちは赦されるべきではない。また、命を奪われた人々と、その親族に対しては心から哀悼の意を表明する。しかし、それは必ずしも『シャルリーエブド』の言論活動を支持することを意味しない。むしろ現在のフランスに必要なのは、「言論の自由」の偶像化ではなく、イスラムに対する偏見や嫌悪感を煽るような行為を、可能な限り抑制することではないだろうか。
『Human Rights First』の2008年の報告によるとフランスの人種主義や外国人嫌悪などの憎悪犯罪の60%以上が北アフリカ由来の人々(ほとんどはムスリム)に対して犯されていた。なお、フランス当局は、このような数字を明確にしていない。「私はシャルリーだ」というスローガンが、果たして適切なものだったのか、そこには大きな疑問が残る。
その他、参考記事
おりしも、事件前のフランスでは、1月7日に新作を発表した作家ミシェル・ウェルベックが話題となっていた。彼の前作『服従』という作品は、近未来のフランスにイスラム法を施行するムスリム大統領が現れるという刺激的な作品である。この作家は、かつて2001年に「イスラムは最も馬鹿げた宗教だ」と語って告訴されたこともある(のちに無罪判決)。そして、まさに今回の襲撃当日の『シャルリーエブド』にも彼の漫画が掲載されていた。
表現は自由だ。しかし、自由には責任が伴う。ウェルベックの一連の作品について、一部の批評家はイスラムに対する批判的な感情を利用していると述べる。そして、このような作品がムスリムにとって不快であるばかりでなく、他のフランス人のムスリムに対する恐怖、不安を煽る役割を果たすことも容易に推測できる。このような作品を発表する姿勢というのは、それ自体イスラモフォビアに与する行為であると取られても仕方がないのではないか。
Elizabeth Bryant. “France ponders its response to shootings: Will xenophobia or multiculturalism win?”. Religion News Service. Jan 12, 2015
『シャルリーエブド』は事件後、早速発行を再開し、その第一号は直ちに完売したと言う。しかし、その表紙には「私はシャルリー」と書いたカードを持った預言者ムハンマドが描かれていた。ムハンマドの肖像を描くこと自体が、偶像崇拝を禁じる敬虔なムスリムを不快にさせることを知っていてなお、このような行為を行うことは、果たしてフランス社会の「統合」「連帯」を真に願うものだと言えるだろうか。むしろ、分断を煽り、過激なイスラム主義者が更なるテロに走る格好の口実を与えるものになりはしないだろうか。
L.V. Anderson. “What Does the New Charlie Hebdo Cover Mean? Its Cartoonist Explains”. Slate. Jan 13, 2015
多くの記事が言及するように、現在のフランス、ヨーロッパでは「統合」「包摂」が大きなテーマとなっている。異なる文化を持つ人々が恐れや不安を抱くことなく、共に生きる社会を築くためには「言論の自由」を行使する立場の人間に、文化や信仰を異にする人々を尊重する感覚が備わっていなければならない。宗教学者のピーター・バーガーの言う「多元主義社会におけるエチケット」である。そういえば、かつて、風刺画に対する批判に対して「ユーモアのセンスがない」と応えたフランス人がいた。確かにそうかもしれないが、一方で、その人物には他人の信仰を尊重するという「センス」が欠如しているのかもしれない。
2015年1月15日
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