テロを引き起こしたのは「宗教」か「政教分離」か

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テロの原因は宗教なのか?

宗教学者のカレン・アームストロング(Karen Armstrong)が、『ガーディアン』誌に9月25日付で長文のエッセイを寄せている。そのタイトルは『The Myth of Religious Violence(宗教的暴力の神話)』。中東をめぐる情勢の深刻化と相俟って、あらためて宗教とテロ、暴力との関係が注目されているが、その論議に新たな視点を与えてくれるものだ。

Karen Armstrong. “The myth of religious violence”. The Guardian. Sep 25th, 2014

特に「世俗主義」の立場を取る人々は、テロや暴力と宗教の本質との間に深い関係があると考えがちである。いわく、宗教は基本的に狂信的で偏狭であり、異なる信仰を持つ者たちへの敵意と暴力を煽るものだ、と。その視点に立った場合には、中東の問題は、啓蒙時代を通過せず政教分離がなされていないが故に起きていることになる。しかし、アームストロングによれば、そのような思考は「ヨーロッパの歴史プロセスに特有でユニークな特徴」の強引な普遍化にすぎない。

ヨーロッパの歴史を改めて考えてみても、宗教だけがおぞましい戦争の原因になってきたのではない。悪名高い30年戦争も、必ずしもカトリックとプロテスタントの戦いという宗教的側面だけではなく、汎ヨーロッパ帝国をつくろうとするカール五世と、それに抵抗するドイツ諸侯たちとの戦いという政治的意味合いも持っていた。更に、政教分離が成された後においては、国民の忠誠の対象が宗教から国家に替わっただけで(フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』に見られるように)、その狂気と排他性には何ら変わりがなかった。

確かに、第一次大戦も第二次大戦も、啓蒙思想を通過したヨーロッパ人が引き起こしたものだ。必ずしも宗教が紛争の要因なのではない。人間の中に潜むエゴや排他性、そこから生み出される敵意や憎悪心が、宗教や民族、国家の旗を掲げて闘ってきたのである。
 
 
「政教分離」の押し付けがテロの要因?

更に、アームストロングは「政教分離」の押し付けこそが、現在の中東における深刻なテロの連鎖を引き起こしたのではないか、と問題提起する。そもそも、西洋近代を除いて「政教分離」という特殊な考え方は存在しなかった。ヘブライ語の聖書には、現代で言う「宗教」という概念は登場しない。宗教と、一般の人間生活、更には政治との間に明確な境界線は存在していなかったからだ。それはインドにおいても、イスラム世界においても同様であり、宗教改革以前のヨーロッパでも同様であった。宗教は、人間生活全体に深く関わり、当然のことながら政治にも深い影響を与えていたのである。

その宗教の持つ意味を忘れ去った世俗主義者が、中東世界におけるイスラムの持つ意味を軽視して、近代化、すなわち「世俗国家」の樹立を無神経に推し進めた。その結果、イスラムの側からの急進的な反発を引き起こし、現在の悲劇的な状況を引き起こしたと彼女は指摘するのだ。

「世俗化」は、フランス革命以来、一般的に、宗教指導者からその持っていた権威や権力を奪い、資産を強奪するとともに、宗教的信条に基づく生活を世俗的法律で侵害し、その政治参加をも規制してきた。具体例として、ヨーロッパで人気の高いトルコのケマル・アタテュルクが行った宗教迫害と暴虐行為を彼女は詳細に描写する。

中東において推し進められた無神経な「世俗化」の過程において、敬虔なムスリムたちは傷ついてきた。彼らの中には、イスラムに基づいた生活、政治を取り戻したいという潜在的な欲求がある。それが「世俗政権」によって抑圧される時、テロリズムなど、過激な行動に走る者たちが現れる。

彼らにとっては、そもそも、現在の国境線も世俗政権も、何ら正当性を持ってはいない。現状に対する「世俗主義」の立場からのアプローチには、原理的にみて明らかに限界がある。

同様の論調が、欧米においても目立つようになってきた。自由、人権、民主主義など西洋近代が生み出してきた価値自体は貴重なものである。しかし、それと並行して進んだ「政教分離」や「世俗化」の行き過ぎと、宗教など人間の精神性の軽視については十分な反省が必要とされている。

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