「Re-Thinking」の時代

culture

今日は、『アメリカン・インタレスト』に掲載された宗教学者ピーター・バーガーのエッセイを取り上げる。「イスラモフォビア」について書いたものだ。

Peter Berger. “Islamophobia”. The American Interest. Jan 28,2015
  
 
「イスラモフォビア」に反対する運動の高まりとその要因

最近「イスラモフォビア」という言葉を耳にする機会が増えている。バーガーは冒頭で、以下のように解説する(要約)。

「それは、個人や団体の運動における反イスラム感情と行動を表す言葉だ。アメリカに存在する現象でもあるが、今は、ヨーロッパにおいて非常に目立つようになってきた。もちろん、最近のその高まりは、風刺新聞『シャルリーエブド』とユダヤ人スーパーに対する2015年1月7日のテロが引き金だ。フランスのみならず、反イスラム運動は、全西ヨーロッパで高まっている。スカンジナビア諸国、オランダ、ベルギー、ドイツ、オーストリア、スイス、そして英国までも。これらの運動は、通常、フランスの「国民戦線」のようなポピュリストないしは右翼の反移民政党と結びついている。もちろん単に右翼と言うことはできない。ドレスデンで毎週数千人を動員するようなドイツのPEGIDA運動などは、怒っているが品行方正な中流階級と、タトゥーを刻んだ暴走族とサッカーのフーリガンたちの風変りな同盟だと言われている」

勿論、このような動きに対抗して「イスラモフォビア」に反対するムスリムたちの努力もある。基本的に「イスラモフォビア」への不安は、すべてのムスリムに共通であり、これは西側におけるムスリムの行動主義にとって、かつてない「共通の傘」を提供している。

他のイシュー、例えば「出入国管理」について言えば、中産階級のムスリムは個人的にほとんど問題を抱えていないし、パレスチナ問題など「米国の外交政策」についても、彼ら自身の日常とは遠い世界の出来事だ。それに対して、反イスラム的な態度については、多かれ少なかれ、皆、個人的な経験、あるいは辛い経験をした友人を持っている。稀にある身体的暴力や、敵対的な言葉や表情、仕事や住居を探す際の差別待遇などだ。だからこそ「イスラモフォビア」に対抗する運動は、多くのムスリムによって支持されやすい。
 
 
反「イスラモフォビア」に対する疑問

ただし、バーガーはこの「イスラモフォビア」なる概念について二点ほど注意を促す。

まず第一に、自らが住む国や地域で少数派の立場にあるムスリムが、反イスラム的感情に不安を憶えるのは当然であり一般的なことだとしつつ、逆にムスリムが多数を占める地域では、他の人々がムスリムを恐れる現状がある、と指摘する。

次に「フォビア」という言葉について。その単語はギリシャ語で、もともとは単に「恐れ」を意味する言葉だったが、現代においては、特に「非合理的な恐れ」を示している。つまり「理性的な人が恐れるべきではないものを恐れること」という定義だ。しかし、バーガーは言う。西欧の極右政党などには「イスラモフォビア」と言う言葉はあてはまるが、モスル(「イスラム国」の支配下にある都市)に住むキリスト教徒や、タリバンの占領地域で医療活動に従事するアメリカ人が、イスラムを恐れるのは、果たして「非合理的」なことだろうか、と。

更に、イスラムの歴史自体が、イスラムに対する恐れや不安を掻き立てる一つの要因になっていることも事実だ、と指摘する。「確かに、多くのムスリムはジハード戦士ではなく、ジハード戦士はイスラムについて歪められた見方をもっているのかもしれない。クルアーンの各章は「慈悲深い神」について言及しており、学者たちはジハードは武器による戦闘というよりは、精神的な闘争であると説明する。しかし、一方で、イスラムの歴史を通じて、その言葉がイスラムの名における武力紛争に適用されてきた事実もある。ムハンマド死後一世紀の間に造られた巨大なイスラム世界も剣によって征服されたものだった」。

勿論、バーガーは、イスラムだけを一方的に責めているのではない。彼は、キリスト教に対しても、メソジストの暗殺者や、長老派の自爆テロ犯がいたことを想起させ、宗教裁判の時代には、ユダヤ人にとってキリスト教徒が恐怖の対象であったことも指摘する。

今、はやりの「中庸」ではないが、彼はイスラムに対する外側の人々の見方についての両極端を戒める。一方では「イスラムは敵だ」と不安を煽る極右政党などの見方があり、もう一方には「テロリズムとイスラムには何の関係もなく、中東における過激勢力は徐々に後退している」とするオバマ大統領のような楽観的な立場もある。バーガーは、その中間の立場を取るように勧める。すべてのムスリムがテロリストであるはずはなく、感情的に敵視するのは間違いだ。しかし、一部のムスリムが現代社会と葛藤を引き起こしていることも事実である、と。
 
 
「イスラム」とは何か、を再考すべき

このエッセイにおける彼の中心的な懸念は、「イスラモフォビア」だけに焦点があてられると、ムスリムが現代社会において抱える中心的な課題から目を背けさせることになる、という点だ。自由や民主主義、人権といったものが一般的となった現代世界において、一部のムスリムが葛藤を引き起こしているのは事実である。

彼がイスラムの中心的問題としてあげるのは「イスラムと現代性との関係は如何にあるべきか」という問いだ。

ここで彼は、中東に住むムスリムよりも、ヨーロッパやアメリカなど、ディアスポラ(国外離散)の状態にあるムスリムに期待を寄せる。彼らは自分たちの宗教が「当たり前」のものではない社会に生きているので、かえって、イスラムとは何なのか、深く見つめなおすことができる、という。

これは、イスラムだけの経験ではなかった。ルターの宗教改革と、引き続く30年戦争の後に信教の自由が認められたキリスト教もそれを経験している。多くのプロテスタントの教派が生まれ、更には無神論などの思想も流行する中で、伝統的な信仰は「多元主義」の試練にさらされた。カトリックが西欧全体を覆っていた時代には、聖書の一字一句は、その通り真実であり、ミサなどの秘跡も当たり前のものだった。しかし、「多元主義」の時代、すなわち近代においてはそうはいかない。

バーガーは多元主義の効用を次のように説く。「どんな伝統にとっても多元主義は利益をもたらす。なぜならどんな伝統も当たり前のものではなくなるので、思慮深い信徒たちが、彼の伝統のうち、何が本質的な核心(Core)であり、何が捨てられても構わないものかを再考(Re-Thinking)し、決定できるからだ」と。例えば、キリスト教徒においても、キリストにおける神の救いこそが本質であり、新約聖書に書いてあるイエスの奇跡が文字通りあったかどうかは本質ではない、と決めるかもしれない。

イスラムにおいても、その作業が行われるべきではないか、と彼は言うのだ。しかも、それは「外部の人間がすることではなく、ウンマ(ムスリムの共同体)の中から起こるべきことだ」と。クルアーンの章句が、いったい何を現代の私たちに語りかけようとしているのか。例えば、彼は預言者ムハンマドの人生におけるメッカ期とメディナ期の間で、預言の内容が変化していることにも注意を向ける。そして、これは伝統的なイスラムの学問でも理解されていることだ。

ムハンマドの預言が真に意味するものは何か、その深い再考(Re-Thinking)は、特に、異なる文化の中でイスラムを抱いて暮らすディアスポラのムスリムの役割だろう。バーガーは欧米で暮らすムスリムに期待を寄せる理由として、東方正教会の例をあげる。

ロシア革命で共産党が政権を握った後、多くのロシア正教の聖職者や思想家たちがパリに逃れ、聖セルギイ神学院の周囲に集まった。バーガーは、彼らの作品を読み、これほど活発で創造的なコミュニティは他にない、と感嘆の声をあげる。そのコミュニティからは哲学者のニコライ・ベルジャーエフ、神学者のゲオルギイ・フロロフスキイ、司祭のアレクサンドル・シュメーマンなどが輩出された。彼らの一部は、米国に渡り米国正教会(OCA)の創設に重要な役割を演じたが、民族ごとのアイデンティティに分かれやすい正教会にあって、米国における民族性を越えた唯一の正教会がOCAである。フロロフスキイやシュメーマンなどはエキュメニズム(教会一致)のパイオニアとしても知られている。
 
 
バーガーのこのエッセイは、歴史的な試練の中にあるムスリムに安易な同情を寄せるものでは決してない。むしろ、現代の多元主義に直面する中で、イスラムがその真価を自覚することに期待を寄せている。これは、恐らく、あらゆる宗教にも適用され得る示唆を含んでいる。イスラムとの向き合い方も含め、あらゆる宗教的伝統、もっと言えばフランスに代表される世俗主義なども、再考(Re-Thinking)されるべき時代を迎えている。

これまでの価値観や社会の秩序が自明のものではなくなり、先の見えない混沌の中にある時代だからこそ、私たちはより良い生き方や、より多くの人々が幸福を享受できる社会、国家、世界をもたらす価値観とは何なのか、深く思索を巡らせるべきだろう。

あらゆる宗教の教えの7割から8割は共通しているとも言われる。もしもすべての人が、自らの伝統の中核(Core)にたどり着くとき、もしかしたら、私たちは宗教や文化の壁を越えて、もっと多くの事を分かち合えるのかもしれない。

« »

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です