福音派が、それでもトランプを支持する理由

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アメリカ大統領選挙もいよいよ佳境を迎えたが、その話題性の高さは、むしろスキャンダラスで、興味本位の次元に貶められて、真面目な政策論争がほとんど無視される異例の事態となっている。海を隔てて眺めている日本人の一般的な感覚からすれば、もうトランプは息の根を止められたのではないか、と感じるのだが、なかなかどうして、依然として40%ほどの支持率を保っている。

なぜ、彼のような言動をし、スキャンダルにまみれた人物を、いまだに支持する人たちがいるのか、メディアでも様々な解説が試みられている。もちろん、3億人に達するほどの大国だ。その投票動向を左右する要因も、とても一つや二つに絞り込めるものではない。ここでは、トランプの主な支持層の一つ、福音派の人々の心理について取り上げてみようと思う。

アメリカと西ヨーロッパの他の先進国とを分けている最大のポイントは、宗教勢力が政治におけるキャスティングボードを握っていることだ。歴史的にキリスト教文化圏に属するとはいえ、その信仰がほぼ形骸化している英仏などの西欧諸国と比べ、米国では依然として熱心なキリスト教徒がかなりの割合を占めている。中でも、70年代以降、共和党の強固な支持層として存在感を高めて来たのが福音派とよばれる人々である。

本来、福音主義というのは、ルターやカルヴィンの宗教改革の遺伝子を受け継ぎ、聖書に記された福音のごとくに信仰を実践し、他者に伝播しようとする純然たる宗教運動だった。それが政治の分野に乗り出してきたことには、はっきりとした理由がある。
 
 
福音派を政治運動に駆り立てた「怒り」

60年代、70年代というのは、行政、司法、文化など、様々な分野において、世俗的(非宗教的)リベラリズムが全盛を極めた時代であった。行政面では、ケネディ、ジョンソンの民主党政権によって社会福祉政策を重視した「大きな政府」路線が取られ、司法においては、ウォーレン・コートと呼ばれた、これまた民主党色の強い最高裁によって、公立学校での祈祷禁止や、妊娠中絶合法化といったリベラルな判決が相次いだ。さらに文化面においては、ベトナム反戦運動と連動する形で、既成世代の倫理道徳や価値観に反抗するカウンターカルチャー・ムーブメントが起こり、性革命によってフリー・セックスの風潮が若者に蔓延し、十代の妊娠や、ドラッグ、離婚の増加が問題となった。

その結果、こうした風潮に対して、伝統的な「清教徒のアメリカ」が崩壊するという危機感を多くの人々が抱くようになった。これら「サイレント・マジョリティ」と呼ばれた人々の中でも、特に敬虔な信仰を持つ福音派の焦燥感には激しいものがあり、キリスト教的、保守的な価値観を代弁し、再び「古き良きアメリカ」を取り戻してくれるような人物を大統領に選ぼうと、積極的な政治運動を開始するようになったのである。

このような経緯を見てわかるように、福音派の人々を突き動かしてきた動機は、リベラルな知識人が主導しつつ世俗化する風潮への「焦り」ないしは「怒り」であった。彼らは、80年代にはレーガン、ブッシュ政権の誕生を助け、90年代半ばのギングリッチ議長が主導する共和党の議会選挙での大勝を支え、2000年代のブッシュJr政権を強力に後押しした。しかし、そうした連勝の裏で、福音派の人々の中には、共和党指導部に対する不信や疑念が高まっていった。共和党の政治家は、選挙の時でこそ、福音派の人々の主張を支持する発言をするが、実際に政権を取ると中道寄りの姿勢にシフトする。そうした中で移民は増え続け、白人プロテスタントの地位や影響力は低下し、社会の世俗化にもブレーキはかからなかった。そうした彼らの不満が絶頂に達したのが、2015年6月の全米での「同性婚合法化」だったのである。
 
 
福音派にとっての負けられない戦い

日本の大手メディアではあまり報じられることが少ないが、最高裁による全米同性婚合法化の判決は、その前後を含めて「信教の自由」や「結婚の定義」をめぐる全米規模の思想闘争でもあり、その戦いは今もって継続中である。その中で、オバマ政権が、ホワイトハウスを虹色にライトアップしたことは、米国民全体のリーダーであるはずの大統領が、二分された国民の片方の側だけの大統領となり、福音派を中心とするキリスト教保守派に対して宣戦布告をしたも同様の出来事であった。その後もオバマ政権は、学校における男女別トイレ問題(トランスジェンダーの人々が出生時の性別と違う性のトイレを使うことを許容するか否か)を巡って州政府と裁判闘争を繰り広げるなど、保守的なキリスト教徒の怒りを煽る政策を推し進めている。

追い詰められた福音派にとって、今回の大統領選挙は、アメリカが伝統的に掲げてきた「信仰の自由」と「キリスト教的な価値」を守るために、絶対に落とすことのできない選挙なのである。最高裁判事の任命一つをとっても、今年1月に保守的価値観の擁護者であったスカリア判事が亡くなった空席を、次の大統領が埋めることになる。もし、ヒラリー大統領になれば、その席は確実にリベラル派のものとなり、ウォーレン・コートの悪夢が再現されることになる。

こうした状況を見ると、トランプ、ヒラリーを巡る混沌状況の中でオバマ大統領を再評価する論調があるのは、多少、奇妙に思える。なぜなら、福音派の一部が、常軌を逸したとも思える投票行動を取っている理由をつくった一因は、あまりにもリベラルな政策に傾斜したオバマ政権自体にあるからだ。福音派の人々は70年代に感じた「怒り」を超える憤りのうちにある。そこに、従来、彼らが属していた中流階級の経済的没落が拍車をかけ、総人口における白人プロテスタントの比率の持続的な低下が、彼らの「焦り」を「絶望」に変える。

では、こうした危機的状況の中で、福音派はどのような候補者を選ぶべきなのか?実は、彼らの「怒り」は民主党政権だけに向けられているのではなく、先ほども説明したように、共和党指導部にも向けられている。これまで共和党の大統領を支援し、多くの上院、下院議員を当選させてきたにもかかわらず、彼らは何もしなかった。それはなぜか?福音派の人々は「共和党の政治家たちが、多くの利益団体や、ロビイストたちに操られているからだ」と考えている。そうした観点から見ると、主流派のブッシュやルピオは言うに及ばず、クルーズですら物足りない。米国の加速する世俗化を食い止めるためには、既成の利益団体に媚びる必要がなく、歯に衣着せぬ物言いで、全米を敵に回したとしてもひるまない「強い指導者」が必要なのだ。すなわち、ドナルド・トランプである。

妥協のない、強い指導者の登場を求める彼らの熱狂を、もはや、共和党指導部も、一部の冷静な福音派の指導者も押しとどめることはできなくなった。

これが福音派の視点から見た「トランプ現象」である。
 
 
トランプの人間性や醜聞は問われないのか?

もちろん、それでもなお疑問は残る。福音派の人々が、それだけ敬虔で熱心なキリスト教徒であるならば、あれだけ女性問題でスキャンダルを起こし、移民やマイノリティに対する差別発言を行うような人物を、信仰的に問題だと思わないのだろうか、ということだ。事実、主流のプロテスタント教会や、福音派の牧師の中にさえ、トランプの人間性に疑問を呈する人々がいる。これについては、実際にトランプを支持する人々のコメントを引用するのがふさわしいだろう。カトリック系のブログ『Patheos』にLibby Anneが、自らはトランプ支持に疑念を持つとしながら、以下のような支持者たちのコメントを紹介している。

「私は、最高の牧師ではなく、最高司令官を探しているのだ。アメリカを再び豊かで安全な軌道に戻すために…、あるいは彼の言葉を借りれば「アメリカを再び偉大な国にする」ために、なすべきことを実行できる人物を」
「真剣に、私たちが過去7年間に経験してきたことを考えてみてほしい。…私はドナルド・トランプを大統領に投票するだろう。私は、彼がロビイストによって曲げられることがなく、アメリカ国民のために正しいことをしてくれると信じている」
「私たちは、彼が日曜学校の素晴らしい教師だからと言って、ジミー・カーターをもう一度選ぶかもしれない。しかし、候補がキリスト教的価値を持っていれば、それは非常に良いことだろうが、それは大統領職のために準備するものではない。率直に言って、私はトランプが困った奴かどうかは気にもかけない。彼が私たちを安全に保つなら、私にはそれがすべてだ。彼は、特定の利益団体やロビイストにコントロールされない唯一の人物だ」

Libby Anne. “Why Evangelicals Support Trump”. Patheos. Feb 21, 2016

 
 
実際、これらのコメントを引用したLibby Anneも指摘しているように「聖書は、神がその目的を果たすために不信心者を用いたという物語で満ちている」。たとえば、旧約聖書には、次のようなエピソードがある。アブラハムの子孫であるイスラエル民族が、その国をバビロニアに滅ぼされ、囚われの身となったとき、ペルシャ王キュロスが現れて、彼らを解放し、エルサレム神殿の修復を認めてくれた。キュロスは、ユダヤ教徒ではないが、ユダヤ教を信奉するイスラエルの守護者となった。福音派の人々にとって、ドナルド・トランプは、現代のキュロス王なのである。従って、彼にどんなスキャンダルがあろうとかまわない。トランプを支持する福音派が求めているのは、敬虔なキリスト教徒ではなく、敬虔なキリスト教徒の味方になってくれる強い指導者だからである。

以上が、選挙終盤、さまざまなスキャンダルが噴出し、三回の討論会に負け続けても、トランプを支持する根強い勢力があることについての一つの説明だ。
 
 
福音派は、更なる悪夢を自ら招くことになるのか?

筆者個人としては、過度の世俗化に対する福音派の人々の危機感や焦りに一定の共感を持ちつつも、それでもなお、なぜトランプなのか、という疑念はぬぐえない。もともと不人気なヒラリーの当選を阻むだけなら、ルピオやクルーズ、さらにはケーシックでも十分だっただろう。いくらキリスト教的価値の守護者となり得るといっても、トランプの人間性や、過去の経歴を受け入れることができる層には限りがある(現実に白人保守層の中でも女性たちの多くは反トランプだ)。また、仮に大統領になったとしても、彼が福音派の期待通りの働きをするとも限らない。むしろ、不用意な発言を繰り返すフィリピンのドゥテルテのように、後戻りできないほどにアメリカの国際的な信頼を損ない、更なる没落に導く可能性すらあるのだ。

福音派の中には、「俳優であったレーガンが、良い政治家となり、こんなにも人気を誇るようになるとは誰も思わなかっただろう」と指摘する人々もいるが、レーガンは、こんなにも口汚く他人を罵ったりはしなかったし、彼自身、回心(ボーンアゲイン)を体験した熱心なキリスト教徒だった。

いずれにしろ、投票が半月後に迫った現在、共和党は、もはや後に引くことはできない。ライアン議長を初めとする共和党指導部は、既に大統領選をあきらめ、議会選挙に注力する方向性だともいうが、自らが立てた大統領候補に対して、それはそれで無責任な態度だろう。残された道は、トランプの周囲に、しっかりとしたブレーンを置き、万全の体制を固めると、トランプに抵抗感を持つ保守層にアピールすることだ。副大統領候補のマイク・ペンスを見ればわかるように、共和党にはバランスのとれた優秀な人材がまだまだ多く存在する。もしも、そうしたアピールに失敗すれば、かなりの確率で三期連続の民主党政権となり、福音派にとっては、更なる悪夢が4年間、いや特に最高裁においては、それ以上の期間、継続することになるだろう。

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