教皇フランシスコとイエズス会の伝統
『ナショナル・レビュー』にオースティン・アイブリに対するインタビュー記事が出た。彼は教皇フランシスコの伝記『偉大なる改革者』の著者である。最近、米国とキューバの間で国交正常化に向けた交渉が始まり、背後で重要な役割を果たしたバチカンの力が改めて注目を浴びている。この一事をとっても、世界政治に対するバチカンの存在感は大きくなりつつあり、そのトップであるフランシスコがどのような思想を持ち、カトリック教会や世界の未来についてどんなビジョンを描いているのか、関心が高まっている。
フランシスコは、言うまでもなく聖職者である。従って、彼の思想やビジョンを知ろうと思えば、政治的、経済的観点だけでは不十分だ。その点で、アルゼンチン教会についての研究で博士号を取り、フランシスコの出身母体であるイエズス会についてもいくらかの洞察を持っているアイブリの視点は非常に参考になる。特に、イエズス会の創始者イグナチウス・デ・ロヨラの『霊操(Spiritual Exercises)』についての理解が、フランシスコの思想を知るうえで最も鍵となるという指摘は重要だ。
インタビュー記事は、かなりの長文(日本語に訳して11000字前後)だが、その一部を紹介したいと思う。なお、直訳ではなく、一部を抜粋・要約しているので、正確な表現を知りたい方は原文を参照していただきたい。
“Who Is Pope Francis?”. National Review Online. Dec 20th, 2014
フランシスコと祖母ノンナ・ローザ
Q 彼の祖母はフランシスコの聖職者としての在り方や、女性についての見方にどんな影響を与えていますか?
A 彼の祖母であるノンナ・ローザ(Nonna Rosa)は若いジョージ(フランシスコの本名)に大きな影響を与えました。彼女は、彼の幼い頃からの保育者であり、彼の愛する先生であり、ガイドであり、素晴らしい物語の語り手でもありました。彼の政治的な傾向のみならず、伝統的なカトリックに対する敬虔な信仰、イタリア文学と詩に対する愛情なども祖母の影響です。彼女は、ムッソリーニの下で、教会の自由の勇敢な擁護者であり、凶悪な者たちと対峙することもありました。若いジョージは、彼女によって、他人の尊厳と価値を学び、彼女は彼にとって「神の慈悲」のモデルとなりました。
また、彼は「慈悲の姉妹たち」修道会に学び、親しい関係を保っていました。彼は神を「慈悲」として経験しており、教会は神の性質を反映し、表す必要があると信じています。彼は新語「ミゼリコーディアー」を作り、人々が彼ら自身を神によって「慈悲化」するように語っています。それは愛に降伏することであり、自治や支配の幻想、急速な技術発展にもたらされる偶像などを捨てることです。彼が貧しい人々に焦点を当てるのも、彼らが現代の誘惑(テクノロジー、権力、自主性)に接することが少なく、より神の慈悲を受け入れやすいと感じているからです。
イグナチウス・デ・ロヨラの『霊操』と教会改革
Q フランシスコという名前はフランシスコ会の創始者の名前ですが、彼はむしろ非常にイエズス会の創始者の伝統を受け継いでいるように思います。現在の教皇政治で起きていることを知るためには、聖イグナチウスの『霊操』について知るべきでしょうか?
A 『霊操』はフランシスコを理解する鍵の一つです。彼はイエズス会士としての生活の初期から聖イグナチウスの規則を吸収した瞑想を提供する師匠であり、霊的な指導者でした。それは聖霊の働きと、一見聖霊の働きに似ているように見える悪魔の働きとを区別する霊的な訓練です。フランシスコが、よく「悪魔」について言及することを多くの人々が驚きますが、それは彼が「悪魔」を非常に良く知っているからなのです。
ヨハネ・パウロ二世は哲学者であり、ベネディクト16世は神学者でした。フランシスコは霊的な指導者です。私は彼がイエズス会士として書いた多くの記事を調べました。それはイエズス会の棚で埃をかぶっていて、私はそれを研究した初の伝記作者だと思います。私は、彼の「霊操」に対する理解の深さに衝撃を受けました。それは、彼の改革の鍵であり、教会の伝道のエネルギーを解放しようとする試みの鍵でもあります。
『霊操』が提案する霊的修行は、何週間かに区分されますが、彼は教会が、その最初の週を提供することを望んでいます。それは人々が自らの人生を振り返り、罪を知り、自らが神によって許され、愛されている罪人であると理解する時です。第二週目は、教会においてキリストに従うことを選ぶ週ですが、そこにジャンプする前に、まず第一週が必要だと彼は考えているのです。それゆえに、教会についての彼のビジョンは、単なる(教理を教える)教師ではなく、(罪の悔い改めと赦しに導く)治癒者であり、母なのです。それが彼の教皇職のプログラムです。
『霊操』から見た、同性愛者、離婚家庭に対するフランシスコの姿勢
この『霊操』を巡るやりとりは重要だと思われる。まず、第一に、彼が貧しい人々に焦点を当てる理由を明らかにしてくれる。罪を自覚し、赦しを与える神の愛に自らを委ねることは、自らに自信を持つ、経済的に豊かで高い教養を持つ人々には難しいレッスンだ。彼は豊かな人々よりも、貧しい人々の方が、神の愛をより謙虚に受け入れる器を備えていると考えている。
次に「第一週目」の経験を重視する彼の姿勢は、同性愛や離婚などの倫理的問題に対する彼の基本的な態度の理由を明らかにする。彼は決して「同性愛や離婚・再婚が罪である」というカトリックの立場を変更しているわけではない。様々な言動から、彼の伝統的な男女の結婚を擁護する姿勢は明確であり、その点では、彼は保守的な人物だ。
ただし、一方で彼は「同性愛者を息子娘に持つ両親」や「離婚・再婚で聖体拝領を受けられない人たち」への配慮を要請する。それは、教会が単なる「教師」ではなく、「治癒者、母」であるべきだという信念に基づいている。カトリック教会が持つ教理や価値観を押し付ける前に、教会がすべての人々の境遇に共感し、配慮していることを示すべきだと彼は考えているのだ。
以前に紹介した『La Nacion』の教皇インタビューの記事に印象深いコメントが寄せられていた。それは「フランシスコの離婚家庭や同性愛者に対する態度は『姦淫の女』に対するイエスの態度に相応するものではないか」という指摘だった。神の律法によれば、姦淫した女は石で撃ち殺されなければならない。しかし、イエスは彼女を罰しなかった。その上で彼は「行きなさい、もう二度と罪を犯さないように」と呼びかける。
この言葉でわかるように、イエスにとって姦淫は明確に「罪」であり犯してはならないものだ。しかし「姦淫」をする者が罪から脱するためには「姦淫してはならない」という神の言葉に心から従いたい、と思わなければならない。そして、それは第二週目に起こる経験なのである。その前に「神」が、そしてイエスが私を心から愛し、配慮を注いでくれているという経験がなければならない。そうでなければ、その罪人は自らが罪を犯しているとさえ自覚しないだろう。
この点から、教皇の立場は、保守でもリベラルでもない、福音と神の慈悲の立場に立つものだということが見えてくる。この点をインタビューの中でアイブリも指摘している。神によって、自らを「慈悲化」されたと受け入れる人々は、イデオロギーではなく、福音を信じる、と。「遅かれ早かれフランシスコは、私たちに選択を要求するだろう」。フランシスコは、右にも左にも、自らが罪人であることを自覚し、神の愛に自らを委ね、無私なる奉仕の人生に生まれ変わることを要請する。
こうして見ると、フランシスコが筋金入りの信仰者であることは確かだと思われる。それだけに一般的な文脈で彼の立場が理解されにくいことも事実である。特に、同性婚に対する認知が急速に広がる米国で危機感を募らせている保守派の聖職者に動揺が走るのも無理はない。現時点では教皇の真意が、内部外部を問わず、十分に浸透しているとは言い難い。
教皇庁が抱える15の病気
「ヨハネ・パウロ二世は哲学者であり、ベネディクト16世は神学者でした。フランシスコは霊的な指導者です」という言葉を紹介したが、それを改めて感じさせる出来事があった。今週の月曜日(22日)、教皇は枢機卿を始めとする聖職者たちに向けた恒例のクリスマス・スピーチを行い、その中で彼は、15の「教皇庁の病気」を指摘した。
そこにはカトリック教会を、神の慈悲を体現する本来の姿に戻そうとする彼の決意がみなぎっている。また、それは勿論、教皇庁の現状に対する批判でもあるのだが、同時に、聖職者たちが「主に出会った」時の喜びに立ち返ることを願う霊的な指導でもある。イエズス会出身の教皇らしく、彼の本質は修道僧だと確認させられた。その15項目は以下の通り。
Stephanie Kirchgaessner. “Pope Francis makes scathing critique of Vatican officials in Curia speech”. the Guardian. Dec 22, 2014
1)(教皇庁が)不滅であり、免疫があり不可欠な存在だと感じること。「自らを批判せず、新しくなろうとせず、改善しようとしない教皇庁は病気の体です」。
2)あまりに懸命に働きすぎること。
3)霊的、精神的に硬化していること。「泣いている人と共に泣き、喜んでいる人を祝賀する人間的感覚を失うのは危険な事です」。
4)あまりに計画しすぎる事。「準備は必要です。しかし、聖霊が自由に働く余地を閉ざそうとする誘惑に陥ってはなりません。それはどんな人間的計画よりも大きく豊かなものです」。
5)雑音を出すオーケストラのように調整せずに働くこと。「足が手に「お前は必要ない」と言ったり、手が頭に「自分の担当に口を出すな」と言ったり…」
6)「霊的アルツハイマー病」になること。「それは主との出会いを忘れた人々の病気です。自分の現在地や情熱、気まぐれ、熱狂に依存してはなりません。また自分の周囲に壁を築き、自らの手で作った偶像の奴隷となってはいけません」。
7)競争するか、得意げであること。「自分の外見、礼服の色や名誉なタイトルが命の目的になっています」。
8)「実存的な精神分裂症」を患うこと。「それは二重の人生を送る人の病気であり、学位では満たせない霊的空虚に特有の偽善の果実です。それは司牧的な奉仕をせず、官僚的な仕事に自らを限定し、現実や具体的な人々との接触を失っている人々をしばしば襲う病気です」。
9)「ゴシップのテロリズム」を犯すこと。「それは直接話す勇気を持たず、陰で語る臆病な人々の病気です」。
10)自分のボスを称賛すること。「ご機嫌取りになって彼らの慈悲を望んではなりません。それは出世第一主義と日和見主義の犠牲になることです。神でない人に敬意を表してはなりません」。
11)他人に対して無関心であること。「嫉妬、あるいは狡猾心で、他人が倒れるのを助けもせず、励ましもせず、喜んでいます」。
12)「葬送の顔」をすること。「劇場的な厳格さと不毛な悲観論は恐れと不安のしるしです。もし使徒であるなら、どこに行こうと私たちは礼儀正しく、穏やかで、熱心で、幸福で、喜びを伝えるに違いありません」。
13)より多くを欲しがること。「心の空虚さを物質的な財産を蓄えることで満たそうとしていませんか」。
14)全体よりも強くなろうと閉じたサークルをつくること。「それは良い意図から始まりますが、やがて体の調和を脅かすガンとなり、そのメンバーを奴隷にします」。
15)この世的な利益を求め、気を惹くこと。「それは、飽くことなく、自らの力を増やそうと、新聞や雑誌なども使って人を罪びと呼ばわりしたり、中傷したりして、自分を他人より優れているように見せる人々の病気です」。
懸念されるのは、このスピーチが沈黙をもって迎えられたという報告があることだ。理想主義の立場に立つ教皇と、バチカンの高位聖職者や官僚機構との間に十分な意志疎通はなされているだろうか。アイブリのインタビューでも触れられた「通訳問題」もその妨げになっている可能性はある。ただでさえ、米大陸出身の初の教皇であるフランシスコは「外様」というべき存在である。
ともあれ、今年のクリスマスも教皇は、枢機卿、大司教だけでなく、教皇庁で働く一般の職員や、彼らの家族たちも招いて、共に祝日を祝ったという。そこにも普通の人々と喜びや悲しみを分かち合いたいと言う彼の願いが現れており、教会改革にかける決意は不変であることが伺える。
2014年12月25日
コメントを残す