「イスラム国」への手紙

peace

9月24日、126人のイスラム法学者が署名した公開書簡が発表された(1)。カリフを自称する「イスラム国」の指導者、アブ―・バクル・アル・バグダディに宛てたもので、イスラムの教義に基づいて、彼らの残虐な行為を非難している。これに対して、イスラム指導者による明確な意思表示を待ち望んでいた各方面から歓迎の声が上がっている。

この公開書簡は24項目で構成されており、それぞれ『クルアーン』や、ムハンマドが語ったとされる信頼性の高い伝承に依拠しつつ、非武装の人々の殺害、他宗教の信徒に対するイスラムの強制、女性や子供への虐待、死体を切り刻むことなどの非人道的行為が、イスラム法に違反していると明記されている。

全文はこちら(2)で入手できる。
 
 
「ありがとう。しかし、まだ十分ではない」

もちろん、イスラムの教義に厳密に依拠しようとするあまり、非ムスリムにとっては難解な論理も多い。宗教哲学誌『FIRST THINGS』への寄稿の中で中東歴史研究者のアイマン・イブラヒムは、この書簡の重大な欠点として、ジハードとカリフ国家についての曖昧な態度があると指摘している(3)。

まず「『ジハード』という語は、他のムスリムに対する武器を伴う紛争には適用できない」という記述について。ここで明確に禁じられているのは「ムスリムに対する」武器の使用であり、「非ムスリムに対する武装闘争」を正当化する解釈の余地が残ってしまうとイブラヒムは指摘する。

更に、ジハードの持つ意味について。本来のジハードは「自己の信仰の形成と、内なるエゴと闘う」ことだ、と内的意義を強調しつつ、武力によるジハードを完全には否定しておらず、その適用対象についても曖昧だ。非ムスリムのうちでも、キリスト教徒など「啓典の民」を尊重すべきだとの記述はあるが、確かに、無神論者や多神教徒についての見解は曖昧なままである。

次に、カリフ国家について。現在の「イスラム国」は「世界中のイスラムコミュニティのコンセンサスを欠いている」として、その正統性を否定するものの、1924年以降失われたカリフ制の再興とカリフ国家の再建については、「ウンマ(イスラム共同体)の義務である」と肯定している。

ここで、問題を「コンセンサスの欠如」に限定することは、「イスラム国」に付け入る隙を与えることになる。1924年以前に存在したどんなカリフ国家も、イスラム世界全体のコンセンサスによって確立されたものではない。そもそも、ムハンマドの死の直後でさえ、カリフ位についての意見の対立があり、シーア、スンニ両派の分裂の遠因となっている。歴史的にみると、イスラム世界全体のコンセンサスがなくともカリフ国家は存在できたということだ。

イブラヒムは、以上の点から、今回の書簡の意義を高く評価しつつも、「イスラム国」の前進を止めるにはまだ不十分であると結論付ける。彼が指摘する通り、この書簡の明示的な対象であるアブ―・バクル・アル・バグダディに対しての抑止効果はあまり期待できないだろう。何しろ、彼はイスラムの高等教育を受け、博士号も取得しているのだから、有効な反論をいくらでも繰り出すことができる。

イブラヒムは今回のイニシアチブを素晴らしいものだと評価しつつ、次のように言う。「ありがとう。しかしまだ十分ではない」。
 
 
イスラム法学者たちのジレンマ

しかし、この書簡には別の目的もある。その一つは、「毎週金曜日に世界中のイスラム共同体で行われる説教に、イスラムの教えについての未加工の資料を提供すること」である(4)。即ち、この書簡は、単に「イスラム国」の指導者(とその追従者たち)だけに宛てたものではなく、全イスラム共同体に向けたメッセージでもあるということだ。その意味では、この書簡は非常に重要な意義を持っている。

もし、このメッセージに基づく説教が行われるなら、今後「イスラム国」の活動に参加する潜在的な可能性を持つ若者たちにとって、一定の抑止効果を持つだろう。法学者たちが、「イスラム国」のアプローチを否定したことの価値は、外部の人間が想像する以上に大きい。米国務省の国際宗教自由局初代局長トーマス・F・ファーは2008年に指摘している。「結局、過激主義とテロリズムを打ち破ることができるのは、イスラムについて心から語りかけるムスリムだけだ」(5)。

ただし、前掲のイブラヒムの論考でも触れているように、イスラムの法学者にはジレンマがある。彼が指摘するのは次の三点だ。

1)オリジナルのイスラム経典を文字通りに解釈すると、「イスラム国」の主張と行動を支持できる(かなり過激な)内容が含まれている。

2)イスラム歴史を振り返っても、「イスラム国」が試みているような解釈は繰り返し現れてきている。

3)ウンマ(イスラム共同体)は、どんな時でも同胞を弁護し支持するよう義務付けられている。

確かに、ムハンマド在世時から、彼を迫害するメッカの人々との戦いに参加することはムスリムの美徳であり、義務でもあった。更に、カリフ帝国の拡大とイスラムの伝播は軍事的勝利と共に進行した。そして、不信心者の扱いに対するイスラムの教義は非常に峻烈だ。

市場経済に巻き込まれる中で拡大する社会格差等の不正義や、世俗化がもたらす倫理的頽廃に憤る誠実なムスリムにとって、イスラムの歴史が内包するこの攻撃性は常に危険な誘惑となる。
 
 
イスラムは「慈悲の宗教」である

しかし、今回の書簡に広汎なイスラム圏の指導者が結集したことが示している通り、多くのムスリムは、他宗教の信徒たちと相互に尊重し合い、平和裏に共存することを願っているはずだ。このグローバル化が進む時代において、世界人口の実に1/4を占めるムスリム(6)が、どのような自画像を描くのか、他宗教の信徒や、その他多くの世俗主義者に対して、どのようなスタンスをとっていくのか、非常に注目されるところである。

今回の書簡は、クルアーンの言葉を引用した次のような文章で締めくくられている。

あなたがたのすべての行いを深く考え直しなさい。それらを直ちにやめて、悔い改め、他の人々を傷つけることをやめて、慈悲の宗教に帰って来なさい。クルアーンにおいてアッラーはおっしゃっている。「次のように言え、『ああ、自らの魂に背いて過ちを犯した私のしもべたちよ。それでもアッラーの慈悲に絶望してはならない。真にアッラーはすべての罪を赦される。真に彼は寛容であり、慈悲深い方である』と」(クルアーン39章「集団(アッ・ズマル)」53節)

ムハンマド自身は周囲の人々に寛容であり、慈悲深かった。もし、彼が残虐で苛烈な人物であったなら、イスラムはこれほどに広がっていくことはなかっただろう。イスラム過激派のみならず、自らの主義主張を暴力によって貫こうとする傾向がみられる現代、イスラムが自らを、寛容と「慈悲の宗教」と規定することは、世界の未来にとって大きな希望となるのではないか。

あらためて、今回の公開書簡の署名者たちに心からの敬意を表したいと思う。彼らの行動は、最大限に賞賛され、更なる前進に向かって激励されるべきである。
 
 
(1)Lauren Markoe. “Muslim scholars tell Islamic State: You don’t understand Islam”. Religion News Service Sep 24th,2014

(2)“Open Letter to Al-Bagdadi”. Sep 19th,2014

(3)Ayman S. Ibrahim. “MUSLIM SCHOLARS VS. ISIS”. First Things Oct 3rd,2014

(4)“How many scriptures?”. The Economist Oct 3rd,2014、において、署名者の一人、米国ブランダイス大学ジョセフ・ランバード教授の解説として紹介されている。

(5)Thomas F.Farr. “Diplomacy in an Age of Faith”. Forreign Affairs March/April 2008

(6)“Global Religious Diversity”. Pew Research Center Apr 4,2014

 

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